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悪魔が来りて笛を吹く

2018-08-03 15:33:00 | 沖雅也
2018年NHKBSプレミアム版の「悪魔が来りて笛を吹く」を観た。
もちろん、沖さんが出演された1977年版との比較のためだ。

(以下、多少のネタバレがありますのでご注意下さい)

何度もドラマ化、映画化された作品で、そのたびに原作とは違う展開が用意されていたのだが、今回は三島が最後まで自分に出自を知らなかったという設定が意外だった。
吉岡秀隆クン(子役から出ている人はいつまでもクン・ちゃんで呼ばれる宿命)の金田一はここで私が書くまでもないが、古谷一行さんに三千点の私でも違和感なく吉岡版を受け入れられた。
秌子夫人は物語の鍵となる人物なのでキャラクターは大事なのだが、いままで演じられた夫人は、名のある女優さんが演じていたため、異常性より美しさが強調されていたように思う。
沖さん版の草笛光子さんも、頼りない世間知らずでありながら、どこか凛とした佇まいが漂っており、この役に限ってはない方が良い「まともな」女性としての知性が見え隠れしていた。それは原作とは違う夫人の結末のためなのだが、事件のあらましを考えると何かが違うと思わせてしまうところがある。
今回の筒井真理子さんは、そういう意味では一番原作と物語に合ったキャラクターに設定されており、多少のデフォルメはあったが、こういう人なら仕方ないわね~と思わせるような脚本になっていた。

沖さんが演じた三島東太郎は、今回は中村蒼さんが演じた。


「非常に難しい役どころで常に頭を悩ませながら撮影を行っていますが、今回の吉田組でしか作ることができない作品と三島東太郎を作っていけたらなと思っています。」

というコメントを発表されていたので、ますます比較して観てしまった。
脚本も違うので、まっすぐ比較するのはフェアでないかも知れないし、原作を考えれば全く使用人に見えない沖さんより、ちょっと訛っており最後には言葉遣いも悪くなる東太郎は、物語の中では馴染んでいる。沖さん版があまりにもドラマチックで、「愛」が主題として押し出されていたから比較することは出来ないとも言える。

今回は東太郎に見せ場がないのだ。
フルートも吹かないし、母への愛も見せない。上半身もタンクトップを着たままだ(笑)。
それでも家族への愛を断ち切れない苦悩の代わりに、責める気持ちと暴力を振るう脚本の中では観ている側の者が東太郎に気持ちを寄せるシーンは少ないのだから、これは演者を責めてはいけないのかも知れない。
復員した時に一変した状況だけは、沖さん版にはない細やかさで東太郎の悲劇が描かれており、普通の青年らしい東太郎という意味では、中村さんの方がしっくりと物語にフィットしているのかも知れない。

複雑な家庭環境を持った沖さんから湧き出るものが、この三島東太郎を演じるためには適役だったと今になって気づく。
むしろ、自分の身と近づけないために抑えた演技を続けたようにさえ見える沖さん版の東太郎。
伏し目でも目に力を持たせることが出来る沖さんの演技は、ここで存分に発揮される。
どんな人間であってもある一定の気持ちを注いで労わる気持ちを忘れない古谷一行さんの金田一耕助をはじめ名優揃い踏みの1977年版の中で、沖さんの東太郎は原作を越えたキャラクターとして昇華している。

1977年版では暗闇に佇む椿英輔が窓辺に立っているという恐怖を掻き立てる演出や、やや暗い画面に戦後の混乱の雰囲気があった。今回の放送に先立って横溝作品の短編集では、その怪奇性を前面に出しており、これはこれで見ごたえがあった。というか、かなり怖くて夜トイレに行かれなくなった(笑)。

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