浅井久政(あさゐひさまさ)
〔現代かなづかい〕あさいひさまさ
※下線部は信長公記以外の記事によります。
下野守。亮政の子で、長政の父。
1542年家督相続、1560年子の長政に家督を
譲り隠居。
1573年8月近江に進軍してきた信長軍は、小谷
城を無視して、退却する朝倉軍を討滅。
その後羽柴秀吉に城中京極丸を攻め
取られ、続いて居所を攻められ自刃。
その頸は京都で獄門に掛けられた。
1574年(天正2年)1月1日 岐阜城での酒宴で
他国衆が退出し馬廻りだけになった時、
朝倉義景、浅井久政、浅井長政の頸に
薄濃を施したものを肴に酒宴を続行した。
**純野のコメント**
さまざまな歴史書で「浅井下野守久政」とあり
ますが、関東十国は皇家(親王)の任国なので、
武家が最高位の「守」を称するのはおかしい。
正しくは第二位の「介」なので、「下野介」が
正しいと思います。信長も一回間違えて「上総守」
と称したあと「上総介」に訂正しています。
本人か取り巻きに皇家の作法がわかる人物が
いたという証拠になります。
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下野守。亮政の子で、長政の父。
1542年家督相続、1560年子の長政に家督を
譲り隠居。
1573年8月近江に進軍してきた信長軍は、小谷
城を無視して、退却する朝倉軍を討滅。
その後羽柴秀吉に城中京極丸を攻め
取られ、続いて居所を攻められ自刃。
その頸は京都で獄門に掛けられた。
1574年(天正2年)1月1日 岐阜城での酒宴で
他国衆が退出し馬廻りだけになった時、
朝倉義景、浅井久政、浅井長政の頸に
薄濃を施したものを肴に酒宴を続行した。
**純野のコメント**
さまざまな歴史書で「浅井下野守久政」とあり
ますが、関東十国は皇家(親王)の任国なので、
武家が最高位の「守」を称するのはおかしい。
正しくは第二位の「介」なので、「下野介」が
正しいと思います。信長も一回間違えて「上総守」
と称したあと「上総介」に訂正しています。
本人か取り巻きに皇家の作法がわかる人物が
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