『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

浅井久政(あさゐひさまさ)

2015-04-21 18:46:56 | 信長公記の蔵:人物篇
浅井久政(あさゐひさまさ)

〔現代かなづかい〕あさいひさまさ


 ※下線部は信長公記以外の記事によります。


下野守。亮政の子で、長政の父。

1542年家督相続、1560年子の長政に家督を

譲り隠居。

1573年8月近江に進軍してきた信長軍は、小谷

    城を無視して、退却する朝倉軍を討滅。

    その後羽柴秀吉に城中京極丸を攻め

    取られ、続いて居所を攻められ自刃。

    その頸は京都で獄門に掛けられた。

1574年(天正2年)1月1日 岐阜城での酒宴で

    他国衆が退出し馬廻りだけになった時、

    朝倉義景、浅井久政、浅井長政の頸に

    薄濃を施したものを肴に酒宴を続行した。


**純野のコメント**

さまざまな歴史書で「浅井下野守久政」とあり

ますが、関東十国は皇家(親王)の任国なので、

武家が最高位の「守」を称するのはおかしい。

正しくは第二位の「介」なので、「下野介」が

正しいと思います。信長も一回間違えて「上総守」

と称したあと「上総介」に訂正しています。

本人か取り巻きに皇家の作法がわかる人物が

いたという証拠になります。


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