『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

巻二の一 巻二開始のこと

2025-03-09 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2007年の再掲です>

巻二の一 巻二開始のこと

 桶狭間の戦いも終わり、結果として織田信長・丹

羽長秀は命ながらえ、柴田勝家も駿河方岡部元信が

鳴海城から退城したのでそろそろ清洲に戻ってきま

す。今川義元を討ち取ってしまったのは三人にとっ

て予想外の事で、事前に「黒末川から東は駿河のも

の」とする準備しかしていなかったので、軍に勝っ

たとはいえ戦後何をすべきか全く頭の中がまっ白の

状態です。「まず何を真っ先にすべきか」三人で方

針を決めるのが先決でしょう。

 尾張方からは「偶然に今川治部少輔義元殿を討ち

取ってしまったが他意はない」として、『風・鳥・

草』を使って近隣各国に告知しておいたので、世間

から見ると織田家の道理は立っており、今川氏と同

盟を結んでいる武田氏・北条氏もすぐに動いてくる

気配はないようです。また大混乱の中、求心力のな

い駿府の今川氏真がすぐに尾張に弔い合戦を仕掛け

てくることはもっとありえないことです。「あとは

織田信長が舅の斎藤道三を殺害した斎藤義龍に弔い

合戦をいどむことになる」と近隣各国は思っている

ようで、尾張方としてもそういう世間の見方に沿っ

て動いたほうが苦労は少ないかもしれません。

 またまた困ったことには、桶狭間の戦いの原因を

作った松平二郎三郎元康(後の徳川家康)が戦後処

理のために行くべき駿府に向かわず、いろいろと理

屈をつけて岡崎城に居座っているようです。とにか

くこの『三河の大たわけ』の殿は、何をしたいのか

がよくわからないし、道理の立たない自己の利益・

満足となる行動しかしない人物です。というのも腹

を立てた尾張の三人が、桶狭間戦後意図的に元康に

ついて「いくさの無作法者がえらいことをしでかし

た」と悪いうわさを流していたため、見当をつけた

人々がそういう風評を流したからですが・・・

 さあ、いよいよ巻二の開始です!!

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