永禄十一年(1568)信長は足利義秋を越前朝倉氏の
ところまで迎えに行き、つづいてこの年の春に妹
「お市」が輿入れした浅井長政のところに立ち寄り、
その後上洛を視野に入れたうえで、一週間に渡って
近江の佐々木左京大夫承禎を説得しています。
尾張・美濃・伊勢・三河四カ国の軍勢が参加した
ことを考えると、そのまま強引に攻めたおす手も
あったのに信長公どうしたんでしょうか?
ここにも因縁と先例を重んじる武家のルールがあり、
実は信長の父信秀と承禎の父定頼は以下のような
共同作戦を実施する、いわば「仲良し」だったわけ
です。
*1536年:佐々木六角定頼・朝倉孝景、土岐頼武
(大桑城)救援の為美濃へ出兵。
*1539年:織田信秀、佐々木六角定頼・朝倉孝景と
介入し、齋藤道三・土岐頼芸方と和睦。
*1546年:12月義輝将軍就位し、佐々木六角定頼、
義輝の元服式で管領代となり、御相伴衆に列せ
られる。
加えて承禎は信長の妹「お市」の婚約を一回は進めて
くれた仲人にも近い人なので、信長としても本気では
戦いにくかったようです。その証拠に承禎が観音寺城
を明け渡し石部に逃げると、しばらく信長方は放置
しています。
なおその後また因縁と先例を感じさせる例があります。
信長は、安土城を築いてから佐々木六角定頼を祀る
「江雲寺光宝亀山御殿」を建立しており、これは、
佐々木六角氏が握っていた南近江の馬借等に対する
懐柔策と思われますし、佐々木六角氏に対して他意は
なかったことを示す好例です。
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ところまで迎えに行き、つづいてこの年の春に妹
「お市」が輿入れした浅井長政のところに立ち寄り、
その後上洛を視野に入れたうえで、一週間に渡って
近江の佐々木左京大夫承禎を説得しています。
尾張・美濃・伊勢・三河四カ国の軍勢が参加した
ことを考えると、そのまま強引に攻めたおす手も
あったのに信長公どうしたんでしょうか?
ここにも因縁と先例を重んじる武家のルールがあり、
実は信長の父信秀と承禎の父定頼は以下のような
共同作戦を実施する、いわば「仲良し」だったわけ
です。
*1536年:佐々木六角定頼・朝倉孝景、土岐頼武
(大桑城)救援の為美濃へ出兵。
*1539年:織田信秀、佐々木六角定頼・朝倉孝景と
介入し、齋藤道三・土岐頼芸方と和睦。
*1546年:12月義輝将軍就位し、佐々木六角定頼、
義輝の元服式で管領代となり、御相伴衆に列せ
られる。
加えて承禎は信長の妹「お市」の婚約を一回は進めて
くれた仲人にも近い人なので、信長としても本気では
戦いにくかったようです。その証拠に承禎が観音寺城
を明け渡し石部に逃げると、しばらく信長方は放置
しています。
なおその後また因縁と先例を感じさせる例があります。
信長は、安土城を築いてから佐々木六角定頼を祀る
「江雲寺光宝亀山御殿」を建立しており、これは、
佐々木六角氏が握っていた南近江の馬借等に対する
懐柔策と思われますし、佐々木六角氏に対して他意は
なかったことを示す好例です。

