源平合戦の時代から戦国期まで、武家の中には自家
と他家の間の交渉を担当する『取次衆』といわれる
人々がいました。例えば
【源平盛衰記の時代】
*平清盛の家では源大夫判官季貞・平越中次郎
兵衛盛嗣ら
*源頼朝の家では安達藤九郎盛長ら
【信長公記の時代】
*織田家では、信秀の時は平手政秀、信長の時は
丹羽長秀
*徳川家では家康のとき、酒井忠次・石川数正
及び大久保一門
がそれに当たります。
あまり有名ではありませんが、信長公や丹羽長秀の
下でかいがいしく働いた奉行「村井貞勝」という人物
がいます。尾張のころからまめに働きをつづけ、様々
な重要な場面で登場します。ポイントだけ時系列で
追ってみます。
1556年:8月名塚取手の戦い後、信長のお袋様が
島田秀頼と村井貞勝を使いとして呼び、
信長の舎弟勘十郎信行の赦免を請うた。
1567年:8月美濃三人衆の呼応に島田秀頼と村井
貞勝が三人衆の人質をとりに行く。
1568年:7月足利義昭を越前に迎えに行く。
1568年:11月民部少輔となる。
1569年:2~4月の二条御所新築の奉行を務める。
1569年:5月頃開始の内裏修復の奉行を務める。
1572年:3月信長の武者小路邸造営の時の奉行を務める。
1572年:京都所司代として諸事を奉行する。
1573年:1~2月将軍義昭の叛心が明らかになったが、
信長は無用の合戦を避けるため、日乗・島田・
村井を講和の使者として送るも、義昭の拒否
により決裂。
1575年:3月長門守となる。
1576年:安土城の普請を担当する。
1576年:4月二条晴良が報恩寺に転居したあとを、
信長の御座所とする普請につき信長と打合せ。
1576年:石山本願寺攻撃に参加。
1577年:2~3月頃、内裏の築地修復を洛中の町人の
出費で実施。
1580年:2月信長から本能寺を御座所に普請するよう
命じられる。
1581年:剃髪し春長軒と号する。
1582年:6月京都二条妙覚寺にいた織田信忠は、
本能寺の変のことを聞き現地に向かおう
としたが、村井貞勝父子からもはや本能寺
は陥落し焼け落ちたことを知る。村井の
言にまかせ、二条新御所から誠仁親王・
和仁王を内裏へと移し、立て籠もった上で
信忠は切腹する。
1582年:6月同日、村井も本能寺の変で討ち死にする。
御覧の通り、信長が手をつけにくい仕事と信長の
「安土城を含むセーフハウス」の造営を主に請け
負っていたようです。それだけ信頼されていたと
いうこと。ただ、自分が普請を任された「二条御所」
「本能寺」で主君信長公と嫡男信忠が討たれる
ことになるとは、討ち死にした村井の心中は察する
に余りあります。無念!
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と他家の間の交渉を担当する『取次衆』といわれる
人々がいました。例えば
【源平盛衰記の時代】
*平清盛の家では源大夫判官季貞・平越中次郎
兵衛盛嗣ら
*源頼朝の家では安達藤九郎盛長ら
【信長公記の時代】
*織田家では、信秀の時は平手政秀、信長の時は
丹羽長秀
*徳川家では家康のとき、酒井忠次・石川数正
及び大久保一門
がそれに当たります。
あまり有名ではありませんが、信長公や丹羽長秀の
下でかいがいしく働いた奉行「村井貞勝」という人物
がいます。尾張のころからまめに働きをつづけ、様々
な重要な場面で登場します。ポイントだけ時系列で
追ってみます。
1556年:8月名塚取手の戦い後、信長のお袋様が
島田秀頼と村井貞勝を使いとして呼び、
信長の舎弟勘十郎信行の赦免を請うた。
1567年:8月美濃三人衆の呼応に島田秀頼と村井
貞勝が三人衆の人質をとりに行く。
1568年:7月足利義昭を越前に迎えに行く。
1568年:11月民部少輔となる。
1569年:2~4月の二条御所新築の奉行を務める。
1569年:5月頃開始の内裏修復の奉行を務める。
1572年:3月信長の武者小路邸造営の時の奉行を務める。
1572年:京都所司代として諸事を奉行する。
1573年:1~2月将軍義昭の叛心が明らかになったが、
信長は無用の合戦を避けるため、日乗・島田・
村井を講和の使者として送るも、義昭の拒否
により決裂。
1575年:3月長門守となる。
1576年:安土城の普請を担当する。
1576年:4月二条晴良が報恩寺に転居したあとを、
信長の御座所とする普請につき信長と打合せ。
1576年:石山本願寺攻撃に参加。
1577年:2~3月頃、内裏の築地修復を洛中の町人の
出費で実施。
1580年:2月信長から本能寺を御座所に普請するよう
命じられる。
1581年:剃髪し春長軒と号する。
1582年:6月京都二条妙覚寺にいた織田信忠は、
本能寺の変のことを聞き現地に向かおう
としたが、村井貞勝父子からもはや本能寺
は陥落し焼け落ちたことを知る。村井の
言にまかせ、二条新御所から誠仁親王・
和仁王を内裏へと移し、立て籠もった上で
信忠は切腹する。
1582年:6月同日、村井も本能寺の変で討ち死にする。
御覧の通り、信長が手をつけにくい仕事と信長の
「安土城を含むセーフハウス」の造営を主に請け
負っていたようです。それだけ信頼されていたと
いうこと。ただ、自分が普請を任された「二条御所」
「本能寺」で主君信長公と嫡男信忠が討たれる
ことになるとは、討ち死にした村井の心中は察する
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