『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

因縁と先例32【信長家の縁の下の力持ち「村井民部丞貞勝」は主君のために働いた。最後まで】

2014-12-29 17:33:34 | 因縁と先例
源平合戦の時代から戦国期まで、武家の中には自家

と他家の間の交渉を担当する『取次衆』といわれる

人々がいました。例えば

【源平盛衰記の時代】

 *平清盛の家では源大夫判官季貞・平越中次郎

  兵衛盛嗣ら

 *源頼朝の家では安達藤九郎盛長ら

【信長公記の時代】

 *織田家では、信秀の時は平手政秀、信長の時は

  丹羽長秀

 *徳川家では家康のとき、酒井忠次・石川数正

  及び大久保一門

がそれに当たります。


あまり有名ではありませんが、信長公や丹羽長秀の

下でかいがいしく働いた奉行「村井貞勝」という人物

がいます。尾張のころからまめに働きをつづけ、様々

な重要な場面で登場します。ポイントだけ時系列で

追ってみます。


1556年:8月名塚取手の戦い後、信長のお袋様が

    島田秀頼と村井貞勝を使いとして呼び、

    信長の舎弟勘十郎信行の赦免を請うた。

1567年:8月美濃三人衆の呼応に島田秀頼と村井

    貞勝が三人衆の人質をとりに行く。

1568年:7月足利義昭を越前に迎えに行く。

1568年:11月民部少輔となる。

1569年:2~4月の二条御所新築の奉行を務める。

1569年:5月頃開始の内裏修復の奉行を務める。

1572年:3月信長の武者小路邸造営の時の奉行を務める。

1572年:京都所司代として諸事を奉行する。

1573年:1~2月将軍義昭の叛心が明らかになったが、

    信長は無用の合戦を避けるため、日乗・島田・

    村井を講和の使者として送るも、義昭の拒否

    により決裂。

1575年:3月長門守となる。

1576年:安土城の普請を担当する。

1576年:4月二条晴良が報恩寺に転居したあとを、

    信長の御座所とする普請につき信長と打合せ。

1576年:石山本願寺攻撃に参加。

1577年:2~3月頃、内裏の築地修復を洛中の町人の

    出費で実施。

1580年:2月信長から本能寺を御座所に普請するよう

    命じられる。

1581年:剃髪し春長軒と号する

1582年:6月京都二条妙覚寺にいた織田信忠は、

    本能寺の変のことを聞き現地に向かおう

    としたが、村井貞勝父子からもはや本能寺

    は陥落し焼け落ちたことを知る。村井の

    言にまかせ、二条新御所から誠仁親王・

    和仁王を内裏へと移し、立て籠もった上で

    信忠は切腹する。

1582年:6月同日、村井も本能寺の変で討ち死にする。


御覧の通り、信長が手をつけにくい仕事と信長の

「安土城を含むセーフハウス」の造営を主に請け

負っていたようです。それだけ信頼されていたと

いうこと。ただ、自分が普請を任された「二条御所」

「本能寺」で主君信長公と嫡男信忠が討たれる

ことになるとは、討ち死にした村井の心中は察する

に余りあります。無念!

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