『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

因縁と先例31【信長公は近江の佐々木左京大夫承禎と本気で戦おうとしたか?】

2014-12-28 17:27:53 | 因縁と先例
永禄十一年(1568)信長は足利義秋を越前朝倉氏の

ところまで迎えに行き、つづいてこの年の春に妹

「お市」が輿入れした浅井長政のところに立ち寄り、

その後上洛を視野に入れたうえで、一週間に渡って

近江の佐々木左京大夫承禎を説得しています。

尾張・美濃・伊勢・三河四カ国の軍勢が参加した

ことを考えると、そのまま強引に攻めたおす手も

あったのに信長公どうしたんでしょうか?


ここにも因縁と先例を重んじる武家のルールがあり、

実は信長の父信秀と承禎の父定頼は以下のような

共同作戦を実施する、いわば「仲良し」だったわけ

です。

*1536年:佐々木六角定頼・朝倉孝景、土岐頼武

 (大桑城)救援の為美濃へ出兵。

*1539年:織田信秀、佐々木六角定頼・朝倉孝景と

 介入し、齋藤道三・土岐頼芸方と和睦。

*1546年:12月義輝将軍就位し、佐々木六角定頼、

 義輝の元服式で管領代となり、御相伴衆に列せ

 られる。


加えて承禎は信長の妹「お市」の婚約を一回は進めて

くれた仲人にも近い人なので、信長としても本気では

戦いにくかったようです。その証拠に承禎が観音寺城

を明け渡し石部に逃げると、しばらく信長方は放置

しています。


なおその後また因縁と先例を感じさせる例があります。

信長は、安土城を築いてから佐々木六角定頼を祀る

「江雲寺光宝亀山御殿」を建立しており、これは、

佐々木六角氏が握っていた南近江の馬借等に対する

懐柔策と思われますし、佐々木六角氏に対して他意は

なかったことを示す好例です。

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