長命寺の日光(ちゃうめいじのにっくゎう)
〔現代仮名遣い〕ちょうめいじのにっこう
※下線部は信長公記以外の記事によります。
頂妙寺日珖。
日蓮宗の僧。堺の豪商油屋の伊達常玄の子として
生まれる。はじめ同地の長源寺日沾に師事。17歳
のとき園城寺、比叡山に学びつつ神道をも修得。
その深い博識に嘆じた比叡山の師尊契は伝教大師
最澄ゆかりの神宝の紫袈裟を截して贈ったという。
興福寺にも学ぶ。
1555年京都頂妙寺三世を継承。一生のうち演説の
回数は485座に及ぶとある。
1558年師跡長源寺を再建するかたわら、河内の三
好一族の帰依を得ていった。
1579年5月安土宗論に法華方として参加し、宗論
に負け浄土宗方から打擲される。
その後当初きわめて強硬な折伏主義をとっていた
日珖も通仏教的な摂受主義に転じ、山光院日詮、常光
院日諦とともに「天台三大部」を講じる三光無師会を
結成した。
1593年徳川家康を介して関東諸山の中山への介入を
抑制した中山輪番制をつくりあげた。
1598年死去。
著書に「己業記」「安土問答記録」などがある。
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頂妙寺日珖。
日蓮宗の僧。堺の豪商油屋の伊達常玄の子として
生まれる。はじめ同地の長源寺日沾に師事。17歳
のとき園城寺、比叡山に学びつつ神道をも修得。
その深い博識に嘆じた比叡山の師尊契は伝教大師
最澄ゆかりの神宝の紫袈裟を截して贈ったという。
興福寺にも学ぶ。
1555年京都頂妙寺三世を継承。一生のうち演説の
回数は485座に及ぶとある。
1558年師跡長源寺を再建するかたわら、河内の三
好一族の帰依を得ていった。
1579年5月安土宗論に法華方として参加し、宗論
に負け浄土宗方から打擲される。
その後当初きわめて強硬な折伏主義をとっていた
日珖も通仏教的な摂受主義に転じ、山光院日詮、常光
院日諦とともに「天台三大部」を講じる三光無師会を
結成した。
1593年徳川家康を介して関東諸山の中山への介入を
抑制した中山輪番制をつくりあげた。
1598年死去。
著書に「己業記」「安土問答記録」などがある。
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