平井越後(ひらゐゑちご)
〔現代仮名遣い〕ひらいえちご
不詳。
1575年10月信長上洛時に、大坂方謝罪の使いとして
参上。「小玉檻」「枯木」「花」の三巻を進上。
1580年3月禁裏からの信長方との講和の勅使を受け、
本願寺顕如光佐・北の方・家老衆が下問した所、
下間頼総・平井越後・矢木駿河・井上・藤井藤左
衛門らが評定を行い、勅定を受けることを決める。
1580年4月顕如光佐は門跡を子の教如光寿に譲り、大坂
から退城するはずであったが、教寿は取り巻きに
そそのかされ、大坂に立て篭もる道を選んだ。そ
のため顕如光佐・北の方・下間・平井越後・八木
駿河守らだけの退城となった。
1580年7月本門跡顕如光佐は、藤井藤左衛門・矢木駿河
守・平井越後を使いとして、勅使近衛前久・勧修
寺晴豊・庭田重保を同行させ、安土の信長にお礼
を進上に参上する。信長方は、宮内卿法印・佐久
間信盛が取り次ぎをつとめる。一行は織田信忠に
お礼を述べたが、信長は会わなかった。信長は門
跡・北の方・下間頼竜・下間頼兼・下間仲之に黄
金を与える注文を下し、使いの衆にも黄金を与える。
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〔現代仮名遣い〕ひらいえちご
不詳。
1575年10月信長上洛時に、大坂方謝罪の使いとして
参上。「小玉檻」「枯木」「花」の三巻を進上。
1580年3月禁裏からの信長方との講和の勅使を受け、
本願寺顕如光佐・北の方・家老衆が下問した所、
下間頼総・平井越後・矢木駿河・井上・藤井藤左
衛門らが評定を行い、勅定を受けることを決める。
1580年4月顕如光佐は門跡を子の教如光寿に譲り、大坂
から退城するはずであったが、教寿は取り巻きに
そそのかされ、大坂に立て篭もる道を選んだ。そ
のため顕如光佐・北の方・下間・平井越後・八木
駿河守らだけの退城となった。
1580年7月本門跡顕如光佐は、藤井藤左衛門・矢木駿河
守・平井越後を使いとして、勅使近衛前久・勧修
寺晴豊・庭田重保を同行させ、安土の信長にお礼
を進上に参上する。信長方は、宮内卿法印・佐久
間信盛が取り次ぎをつとめる。一行は織田信忠に
お礼を述べたが、信長は会わなかった。信長は門
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