『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

平井越後(ひらゐゑちご)

2019-02-03 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
平井越後(ひらゐゑちご)

〔現代仮名遣い〕ひらいえちご


不詳。

1575年10月信長上洛時に、大坂方謝罪の使いとして

    参上。「小玉檻」「枯木」「花」の三巻を進上。

1580年3月禁裏からの信長方との講和の勅使を受け、

    本願寺顕如光佐・北の方・家老衆が下問した所、

    下間頼総・平井越後・矢木駿河・井上・藤井藤左

    衛門らが評定を行い、勅定を受けることを決める。

1580年4月顕如光佐は門跡を子の教如光寿に譲り、大坂

    から退城するはずであったが、教寿は取り巻きに

    そそのかされ、大坂に立て篭もる道を選んだ。そ

    のため顕如光佐・北の方・下間・平井越後・八木

    駿河守らだけの退城となった。

1580年7月本門跡顕如光佐は、藤井藤左衛門・矢木駿河

    守・平井越後を使いとして、勅使近衛前久・勧修

    寺晴豊・庭田重保を同行させ、安土の信長にお礼

    を進上に参上する。信長方は、宮内卿法印・佐久

    間信盛が取り次ぎをつとめる。一行は織田信忠に

    お礼を述べたが、信長は会わなかった。信長は門

    跡・北の方・下間頼竜・下間頼兼・下間仲之に黄

    金を与える注文を下し、使いの衆にも黄金を与える。


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