『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

信長から細川藤孝への手紙:21織田信長黒印状 天正四年六月廿八日

2019-02-02 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】

1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書

細川家文書中世編」を参照しています。

2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳

し間違いがあるかもしれません。

3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が

通じない可能性のある部分に純野が追記した

文言です。

4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合

はなるべく原文のままとしました。


21織田信長黒印状 天正四年六月廿八日

<本文>

 (貴殿からの)手紙の委細を見させていた

だいた。船の警護を厳重にして、なかんづく

安宅(信康)が(当方に)別心なく敵の攻撃

を成り立たないようにしてすぐに散り散りに

させたと聞き、先ずもって然るべき結果であ

ったと思う。同じ件について、三好山城守

(康長)の東条方面からの書状も到着し見さ

せていただいたところである。今後も(両名

について)特に変わったことがあれば報告を

頂き、度々(当方に)注進をして本当に油断

なくしていただくと喜悦の至りである。すぐ

にお会いしたいと思う。謹言。

 天正四年六月廿八日 信長(黒印)

 長岡兵部大輔(藤孝)殿

 ※天正四年=1576年


**純野のつぶやき**

 天正四年(1576年)の前回の書状(四月

三日)の2か月後の日付の書状です。手紙に出

てくる二人は、

・安宅信康

 1570年6月姉川の合戦の最中、野田・福島に

 篭城し信長に反抗。1572年織田信長に従う、

 1577年と1578年毛利水軍と木津川口で戦う。

・三好康長

 1570年6月姉川の合戦の最中、野田・福島に

 篭城し信長に反抗。1574年再び高屋城に籠もり

 信長に反抗。1575年4月籠城中の高屋城を信長

 軍に攻められる。その後香西越後らの新堀城落

 城を耳にし、松井夕閑を通じて降参し信長から

 赦免される。

という背景があり、敵対した後信長公の勢力下

に入っています。手紙でも信長公は「長岡藤孝

殿が安宅信康・三好康長が敵を蹴散らす活躍を

していることを伝えてきたのなら裏切らないだ

ろう・・」と信用しきっているようです。手紙

の文面からすると、この二人が信長公の家臣と

なったのは長岡藤孝の取り計らいがあったよう

な気がします。

                    以上


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