【注意事項】
1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書
細川家文書中世編」を参照しています。
2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合
はなるべく原文のままとしました。
21織田信長黒印状 天正四年六月廿八日
<本文>
(貴殿からの)手紙の委細を見させていた
だいた。船の警護を厳重にして、なかんづく
安宅(信康)が(当方に)別心なく敵の攻撃
を成り立たないようにしてすぐに散り散りに
させたと聞き、先ずもって然るべき結果であ
ったと思う。同じ件について、三好山城守
(康長)の東条方面からの書状も到着し見さ
せていただいたところである。今後も(両名
について)特に変わったことがあれば報告を
頂き、度々(当方に)注進をして本当に油断
なくしていただくと喜悦の至りである。すぐ
にお会いしたいと思う。謹言。
天正四年六月廿八日 信長(黒印)
長岡兵部大輔(藤孝)殿
※天正四年=1576年
**純野のつぶやき**
天正四年(1576年)の前回の書状(四月
三日)の2か月後の日付の書状です。手紙に出
てくる二人は、
・安宅信康
1570年6月姉川の合戦の最中、野田・福島に
篭城し信長に反抗。1572年織田信長に従う、
1577年と1578年毛利水軍と木津川口で戦う。
・三好康長
1570年6月姉川の合戦の最中、野田・福島に
篭城し信長に反抗。1574年再び高屋城に籠もり
信長に反抗。1575年4月籠城中の高屋城を信長
軍に攻められる。その後香西越後らの新堀城落
城を耳にし、松井夕閑を通じて降参し信長から
赦免される。
という背景があり、敵対した後信長公の勢力下
に入っています。手紙でも信長公は「長岡藤孝
殿が安宅信康・三好康長が敵を蹴散らす活躍を
していることを伝えてきたのなら裏切らないだ
ろう・・」と信用しきっているようです。手紙
の文面からすると、この二人が信長公の家臣と
なったのは長岡藤孝の取り計らいがあったよう
な気がします。
以上
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し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
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21織田信長黒印状 天正四年六月廿八日
<本文>
(貴殿からの)手紙の委細を見させていた
だいた。船の警護を厳重にして、なかんづく
安宅(信康)が(当方に)別心なく敵の攻撃
を成り立たないようにしてすぐに散り散りに
させたと聞き、先ずもって然るべき結果であ
ったと思う。同じ件について、三好山城守
(康長)の東条方面からの書状も到着し見さ
せていただいたところである。今後も(両名
について)特に変わったことがあれば報告を
頂き、度々(当方に)注進をして本当に油断
なくしていただくと喜悦の至りである。すぐ
にお会いしたいと思う。謹言。
天正四年六月廿八日 信長(黒印)
長岡兵部大輔(藤孝)殿
※天正四年=1576年
**純野のつぶやき**
天正四年(1576年)の前回の書状(四月
三日)の2か月後の日付の書状です。手紙に出
てくる二人は、
・安宅信康
1570年6月姉川の合戦の最中、野田・福島に
篭城し信長に反抗。1572年織田信長に従う、
1577年と1578年毛利水軍と木津川口で戦う。
・三好康長
1570年6月姉川の合戦の最中、野田・福島に
篭城し信長に反抗。1574年再び高屋城に籠もり
信長に反抗。1575年4月籠城中の高屋城を信長
軍に攻められる。その後香西越後らの新堀城落
城を耳にし、松井夕閑を通じて降参し信長から
赦免される。
という背景があり、敵対した後信長公の勢力下
に入っています。手紙でも信長公は「長岡藤孝
殿が安宅信康・三好康長が敵を蹴散らす活躍を
していることを伝えてきたのなら裏切らないだ
ろう・・」と信用しきっているようです。手紙
の文面からすると、この二人が信長公の家臣と
なったのは長岡藤孝の取り計らいがあったよう
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