『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

中川清秀(なかがはきよひで)[2/2]

2018-06-26 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
中川清秀(なかがはきよひで)[2/2]

〔現代仮名遣い〕なかがわきよひで

※下線部は信長公記以外の記事によります。


1581年8月「毛利輝元・吉川元春・小早川隆景

    が鳥取城の後巻きに出陣する」との風

    説により、信長は長岡藤孝・忠興父子、

    惟任光秀、池田恒興・高山重友・中川

    清秀・安倍二右衛門・塩河吉大夫らへ

    出陣の用意を命じる。

1582年2月信長信濃出馬の条々書き出しの中で、

    中川清秀は信濃への出陣を命じられる。

1582年3月織田信長の信州入りに同行し、上諏

    訪の陣で信長を警護。

1582年5月羽柴秀吉の高松城攻囲の様子を聞き、

    信長は自ら出馬することを決め、堀秀

    政を使いとして秀吉に細かく指示する。

    また惟任光秀・長岡忠興・池田恒興・

    塩河吉大夫・高山重友・中川清秀らに

    先陣として出勢するよう命ずる。

1582年6月の本能寺の変後、秀吉軍として山崎

の戦いで活躍。

1583年賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家につき、近江

賤ヶ岳の城を守り、4月大岩山の砦を守って討ち

死に。


 ※最善の選択で戦乱の世を生き延びてきた

  中川清秀でしたが、最後の最後に柴田勝

  家に付くという選択はどうだったのでし

  ょうか・・諸行無常でございます。


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