中川清秀(なかがはきよひで)[2/2]
〔現代仮名遣い〕なかがわきよひで
※下線部は信長公記以外の記事によります。
1581年8月「毛利輝元・吉川元春・小早川隆景
が鳥取城の後巻きに出陣する」との風
説により、信長は長岡藤孝・忠興父子、
惟任光秀、池田恒興・高山重友・中川
清秀・安倍二右衛門・塩河吉大夫らへ
出陣の用意を命じる。
1582年2月信長信濃出馬の条々書き出しの中で、
中川清秀は信濃への出陣を命じられる。
1582年3月織田信長の信州入りに同行し、上諏
訪の陣で信長を警護。
1582年5月羽柴秀吉の高松城攻囲の様子を聞き、
信長は自ら出馬することを決め、堀秀
政を使いとして秀吉に細かく指示する。
また惟任光秀・長岡忠興・池田恒興・
塩河吉大夫・高山重友・中川清秀らに
先陣として出勢するよう命ずる。
1582年6月の本能寺の変後、秀吉軍として山崎
の戦いで活躍。
1583年賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家につき、近江
賤ヶ岳の城を守り、4月大岩山の砦を守って討ち
死に。
※最善の選択で戦乱の世を生き延びてきた
中川清秀でしたが、最後の最後に柴田勝
家に付くという選択はどうだったのでし
ょうか・・諸行無常でございます。
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※下線部は信長公記以外の記事によります。
1581年8月「毛利輝元・吉川元春・小早川隆景
が鳥取城の後巻きに出陣する」との風
説により、信長は長岡藤孝・忠興父子、
惟任光秀、池田恒興・高山重友・中川
清秀・安倍二右衛門・塩河吉大夫らへ
出陣の用意を命じる。
1582年2月信長信濃出馬の条々書き出しの中で、
中川清秀は信濃への出陣を命じられる。
1582年3月織田信長の信州入りに同行し、上諏
訪の陣で信長を警護。
1582年5月羽柴秀吉の高松城攻囲の様子を聞き、
信長は自ら出馬することを決め、堀秀
政を使いとして秀吉に細かく指示する。
また惟任光秀・長岡忠興・池田恒興・
塩河吉大夫・高山重友・中川清秀らに
先陣として出勢するよう命ずる。
1582年6月の本能寺の変後、秀吉軍として山崎
の戦いで活躍。
1583年賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家につき、近江
賤ヶ岳の城を守り、4月大岩山の砦を守って討ち
死に。
※最善の選択で戦乱の世を生き延びてきた
中川清秀でしたが、最後の最後に柴田勝
家に付くという選択はどうだったのでし
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