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『よし』・『ゆき』、我が家に住むペンギン?の「ペン太」の散策記です!

花と芸術に覆われた要塞 ~2019.3.31(日)片倉城址

2019-03-31 16:03:35 | 街・観光地編2019

 ユキさを誘い、JR横浜線に乗って東京都八王子市の片倉城址公園へ行って来ました!
片倉城址公園は、室町時代~戦国時代にかけて存在した片倉城の跡地に作られた公園。
城跡としてだけでなく、花や芸術作品、公園で遊ぶ事等を目的に利用できる公園です。

 JR横浜線、片倉駅で下車。
初めて下車する駅。
北に湯殿川、南に兵衛川(ひょうえいがわ)が流れる小比企丘陵の東の先端が片倉城で、駅は片倉城尾の有る丘の麓、2本の川に挟まれた平らな谷底の住宅街に有ります。
駅の北側にコンビニ、南側にスーパーが有りますが、飲食店は駅前には有りません。
構内にイートインできるお弁当屋が。
結局昼食は地元に戻ってから食べました。

 公園に入って直ぐ見えるのが写真のブロンズ像達。

 鎧を被り、マントに体を覆っている不審者・・・ではなく騎士なのかな?
この一角にはこう言った作品が並んでいます。

 蓮池、管理事務所、芸術作品群を過ぎ、右に菖蒲が咲くと言う菖蒲田を見ながら左手の斜面を登る道を進むと、イチリンソウがお出迎え♬

 そして、お目当てのカタクリの花が(o^―^o)
片栗城址公園は『カタクリの名所』として知られる場所。
城跡も見たかったのだけれど、カタクリの花を観たいと思っていたので、開花時期を待っていたのです。
先日の月尾根沢では時期が早くて蕾のみだったので、漸く咲いた花に出会えました。
以前は毎年の様に月尾根沢に行っていたのですが、御無沙汰していたので、カタクリの花を見たのは2~3年振りかな?
山の中の月尾根沢と違い、此処のカタクリは既に満開を過ぎていました。
でも、未だ此れから咲くと言う株も。

 ヒトリシズカは花芽が開く前の葉に包まれた状態。
明日か明後日には開きそうですね。
『春のカウントダウン』を見ているみたい。

 地面には片栗に株が沢山生えているのですが、既に開花を終えている株が多い。
満開の時期に訪れたかったな。  

 奥の沢沿いのコースを登り、左手の斜面を上がる道を行きました。
谷底に木橋が有り、向こうの斜面を登る道に繋がっています。
緑の場所にはカタクリ等の植物が。
カタクリは公園内の彼方此方に植えられています。
この谷と向こう側の斜面、左手に延びる奥の沢の源流部の斜面。
右の麓から攻め上がって来る敵を三方から挟み撃ちにする構造になっています。
思うの他、城として地形をいじった光景が残っているし、当時の事を感じさせてくれる事に驚き。
「小さい丘の砦、出城」と言う印象で訪問したので、意外にも大規模に手を入れた光景に驚きと共にちょっと感動も。

 斜面の上の道から谷を。
此処から弓を射たり、石を落としたりしたのかな?
当時は柵を設けたりして、侵入を防ぐ様にしていたのかな?

 登った後、左手を見ると空堀とその向こうの尾根の先に小さい広場が。
休憩広場と言う名になっていますが、突き出した尾根の先は、見渡しも良く、眼下の三方から迫る敵兵を攻撃する場所だったのではないかと。
写真手前の地面で転がっている丸太や枝が空堀で、私が居る二の丸広場と休憩広場を隔てる空堀。
中央を歩く2人の場所が道で、休憩広場から左右に分かれる道を歩いています。
左が奥の沢から登って来る道に通じています。
右は本丸へ続く道。
 
休憩広場を背にした先に二の丸広場が。
広い芝生の広場で、周囲には桜の木も。
ボール遊びをする家族やビニールシートを広げ、食事をする方々も。
本丸広場は狭いので、片倉城の中心部は此処なのでしょうね。
広場の橋は土塁で土盛りがされていて、その向こうは彫られて空堀になっています。
空堀を掘った際の土で土塁を作ったのでしょう。
この広い場所が城内に立て籠もった兵士達が集まり、動き回る場所だったでしょうし、食料等物資の貯蔵や兵士の休息場所でもあったのかな? 

 アケビの花を発見。
キクラゲみたいな色をしています。
会社の敷地内でも咲いているのだけれど、自らの花の花粉だと受粉しないので、1本しか無い為、毎年花を咲かせるけれど実を付けないんだよね。
山の中だと直ぐ横に他の株が無くても、周辺の森に他の株が有れば受粉出来るのだけれど、街中に花屋で買って植えた株・・・だと、そうはいかないよね。
会社周辺にお住まいの方の御自宅にアケビを植えられる方が居れば会社のアケビも実を付けるかな?

 二の丸広場の西側は畑が広がっています。
ここも丘の上なので、用水路は無いし、水の確保は大変だろうな。
今は水道が引っ張ってあるのかも知れないけれど、家は1軒も無いし、どうなのかな?
水道が無いとしたら水やりは大変だよな。
 お城が有った頃は、この広い部分はどの様に使っていたのだろう?
本丸、二の丸が最後の拠点で、土塁と空堀を隔てた場所。
奥の沢の突き当りの斜面の上に位置し、奥の沢の左右の斜面を繋ぐ部分だから、守備兵達が行き来した場所でしょう。

 畑脇の道を東に進んだ先には広い芝生広場が。
此処も城址公園なのかと思ったのですが、此処は『つどいの森公園』と言う看板が有りました。
2つの公園が畑を隔てて尾根上にあるんですね。

 つどいの森公園は尾根の先端で、北、東、南皆下り斜面になり、その下に道や住宅が広がっています。
城址公園の一角だけ城として利用し、つどいの森公園の方は使わないと言うのは、考え難い。
此方からは全く無防備で侵入出来ると言うのはおかしいので、此処迄が城だったのではないかな。
となると、結構な広さ。
2~300人で立て籠もるには厳しいな。
敵が何処から来るかとなると、築城に際しての資料が無く、「室町時代では?」と言われているし、鎌倉時代初期の和田合戦で敗れた横山氏の後にこの地を治めた大江広元の子孫である長井氏が建てたと言われているけれどはっきりしない。
扇ガ谷上杉氏が小田原北条氏と戦う際に築城した深大寺城(じんだいじじょう)に造りが似ていて、関連性を指摘する声も有るとの事。
対北条氏となると、伊豆半島の韮崎城を拠点に小田原を手に入れ、神奈川の西の方から東の方へ勢力を伸ばしていったので、此処だと南側の相模原や南西の相模原や厚木、愛川方面を睨む事になるし、北条氏統治下にも手を入れていると考えられるので、その時代になると甲斐の武田氏を考えて整備・改修する事になる。
武田信玄が小田原城を攻撃し、甲斐に戻る際に愛川町の三増峠で追手の北条勢と戦った三増合戦では、北条氏照、氏邦は、この片倉城から出陣したと言う案内看板を見たけど、武田信玄が小田原城へ向かう前に、この付近の一大拠点であった滝山城を攻めた後、小田原城へ向かう際には、片倉城を攻めずに麓を素通りしたとの事。
無用な損害を避けて攻めなかったのだろうし、片倉城を攻め落とす時間も意義も無いと思ったのだろう。
片倉城は滝山城の出城と言う扱いだから、放って置くと背後から攻撃を受けると言う程の大軍は居らず、素通りしたのではないかな?
でも、つどいの森迄含めると結構広い。
麓の住民を総動員しても全体に睨みを利かせるのは大変と感じる。

 京王線の山田駅近くの雲龍寺に有る五重塔が見える。
行った事は無いのだが、「五重塔が見える」「何処のお寺だろう?」と帰宅後に調べてみた。
本堂等のお寺の建物だけだと目立たないけれど、五重塔って一際目立つよなぁ~。

 再び片倉城址公園に戻り、二の丸広場から本丸広場へ。
間には空堀と本橋と言う木橋が。
当時の空堀はもっと深い物だったろうし、木橋も場所によっては緊急時には敵の進入を防ぐ為に簡単に取り壊せる物が多く作られていたのではないかな。

 本丸広場を過ぎ、住吉神社へ。
裏側に到着し、本殿、拝殿の横手から正面へ回り込みます。

 拝殿の前へ。


 八王子指定文化財で、神社に奉納されている物のレプリカと思われる物が拝殿の外側に取り付けられていました。
拝殿の内部にも同じ物が見えたので、それが本物なのかな?
江戸時代の算術で、『関流』の算術で、物の角度やら何やらを解いたものの様です。
「算術が記された額」と言う事で「算額」と書かれていました。
江戸時代に算術と言う物が有った事は知っていましたが、それが実際に記されている物を見たのは初めて。
でも、何が何だかさっぱり分からない。
まぁ、元々算数、数学は苦手だしね・・・。

 城の痕跡が見られる場所としても手軽でお薦めですし、チョット上っただけで広い芝生広場が有って、遊ぶのにも昼食や休憩を取る場所としてもお薦めで、気持ちの良い場所でした。




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