選挙が終わった。
立花隆も予想した通り小泉は大負けすることはなかったが、今回の結果を眺めつつ僕は日本人についてまたあれこれ考えてしまった。
日本人の精神構造の特徴を社会学では“事実性の優位”と呼ぶことがあるそうな。
ある社会的規範に対するviolationが生じた場合、日本人はそれを是正するよりもむしろ、生じた歪みの中でいかに適応していくかに力を注ぐのだという。つまり、いかなる違背であってもそれが一旦既成事実化してしまえば、あとは現状を追認し唯々諾々としてそれに従うようになるというのだ。
日本では、制限速度60キロの道路を65キロで走行してもまず捕まることはない。
また、駐車禁止区域に車を止めても30分以内ならレッカーされることはない。欧米であればこうはいかないが、日本ではこれが普通である。それどころか違法駐車の車を直ちにレッカーするようなことがあればそれこそ警察の横暴だなどと非難されかねない。
このように、日本人にとって規則もしくは法律とは、遵守すべきものというより、ある種の目標みたいな存在でしかないのである。もし規則に違反していても、多少の逸脱ならこれを許す、または許して当然と言う極めていいかげんで曖昧な精神構造を日本人は持ち合わせているのだ。
もちろんこのような日本人独特の感覚を僕は否定するつもりはない。しかし、昨今の国内外の情勢に対する世論の動向を見るにつけこの“事実性の優位”という民族性がいかに我々自身の正当性を危うくしているかということを考えずにはいられないのである。
戦後のGHQによる占領統治が開始された時、マッカーサーの側近の日記には、文句一つ言わずに整然と命令に従う日本国民に対する驚きが記されていたと言う。他方日本の占領統治政策を手本にしようとしたアメリカはイラクで大変な抵抗に遭っている。
(そもそもイラクに限らず、日本と同じような手法が通用する国が他に存在するとは僕には思えないのだけれど、、、)
アメリカ批判者として知られる言語学者ノーム・チョムスキーと会談した鶴見俊輔は「日本人はアメリカから原爆を2発も落とされたのに、何故アメリカとこれほど仲良く付き合うことが出来るのか?」と訊かれ言葉に詰まったという。
ことほどさように、日本人は、時流に逆らわず、ありのままを追認し、現状に適応して生きようとする民族なのである。
早い話が優柔不断なのだ。
イラク戦争前に、あれだけ大きなムーブメントになっていた反戦運動にしたって、一旦自衛隊が派兵されると世論調査では賛成が反対を上回り、メディアも掌を返したように「イラク国民は自衛隊を歓迎している」などという記事を垂れ流す。
この日本国民の変わり身の早さには閉口する。
まさに“事実性の優位”以外の何者でもない。
イギリスではブレア率いる労働党が第3党に成り下がり、スペインではアズナール政権が崩壊し、そしてアメリカではいよいよブッシュ人気が風前の灯だというのにである。
なのに日本国民の多くは、まだ現政権を支持しようというのだ。
イラク戦争の大儀についての詭弁にしても、改悪年金法案の強行採決にしても、多国籍軍参加の口約束にしても、完全に国民を舐めているとしか思えないこの政権をどうやったら支持し続けられるのか、僕は不思議でならない。
僕の田舎の石川県でも自民党候補が圧勝した。前にも書いたが、今年の正月に田舎に帰ったとき、故郷の寂れようを見て僕は思わず目を覆いたくなった。地方は今やボロボロだ。森喜朗を輩出する強力な保守地盤では確かにあるけれど、それにしても圧勝させるこたあないでしょうに、、、。
それこそ「日本の国債がボツワナと同じ格付けだなんて許せん!」などとブ~たれる暇があったら、せめて日本の民度をボツワナ並にあげる努力をした方がいいのではないだろうか(ボツワナの民度は知らないけど、、、)。
他にも、選挙制度のこととか言いたいことはあるけど、長くなるので今日はこの辺でやめておく。
立花隆も予想した通り小泉は大負けすることはなかったが、今回の結果を眺めつつ僕は日本人についてまたあれこれ考えてしまった。
日本人の精神構造の特徴を社会学では“事実性の優位”と呼ぶことがあるそうな。
ある社会的規範に対するviolationが生じた場合、日本人はそれを是正するよりもむしろ、生じた歪みの中でいかに適応していくかに力を注ぐのだという。つまり、いかなる違背であってもそれが一旦既成事実化してしまえば、あとは現状を追認し唯々諾々としてそれに従うようになるというのだ。
日本では、制限速度60キロの道路を65キロで走行してもまず捕まることはない。
また、駐車禁止区域に車を止めても30分以内ならレッカーされることはない。欧米であればこうはいかないが、日本ではこれが普通である。それどころか違法駐車の車を直ちにレッカーするようなことがあればそれこそ警察の横暴だなどと非難されかねない。
このように、日本人にとって規則もしくは法律とは、遵守すべきものというより、ある種の目標みたいな存在でしかないのである。もし規則に違反していても、多少の逸脱ならこれを許す、または許して当然と言う極めていいかげんで曖昧な精神構造を日本人は持ち合わせているのだ。
もちろんこのような日本人独特の感覚を僕は否定するつもりはない。しかし、昨今の国内外の情勢に対する世論の動向を見るにつけこの“事実性の優位”という民族性がいかに我々自身の正当性を危うくしているかということを考えずにはいられないのである。
戦後のGHQによる占領統治が開始された時、マッカーサーの側近の日記には、文句一つ言わずに整然と命令に従う日本国民に対する驚きが記されていたと言う。他方日本の占領統治政策を手本にしようとしたアメリカはイラクで大変な抵抗に遭っている。
(そもそもイラクに限らず、日本と同じような手法が通用する国が他に存在するとは僕には思えないのだけれど、、、)
アメリカ批判者として知られる言語学者ノーム・チョムスキーと会談した鶴見俊輔は「日本人はアメリカから原爆を2発も落とされたのに、何故アメリカとこれほど仲良く付き合うことが出来るのか?」と訊かれ言葉に詰まったという。
ことほどさように、日本人は、時流に逆らわず、ありのままを追認し、現状に適応して生きようとする民族なのである。
早い話が優柔不断なのだ。
イラク戦争前に、あれだけ大きなムーブメントになっていた反戦運動にしたって、一旦自衛隊が派兵されると世論調査では賛成が反対を上回り、メディアも掌を返したように「イラク国民は自衛隊を歓迎している」などという記事を垂れ流す。
この日本国民の変わり身の早さには閉口する。
まさに“事実性の優位”以外の何者でもない。
イギリスではブレア率いる労働党が第3党に成り下がり、スペインではアズナール政権が崩壊し、そしてアメリカではいよいよブッシュ人気が風前の灯だというのにである。
なのに日本国民の多くは、まだ現政権を支持しようというのだ。
イラク戦争の大儀についての詭弁にしても、改悪年金法案の強行採決にしても、多国籍軍参加の口約束にしても、完全に国民を舐めているとしか思えないこの政権をどうやったら支持し続けられるのか、僕は不思議でならない。
僕の田舎の石川県でも自民党候補が圧勝した。前にも書いたが、今年の正月に田舎に帰ったとき、故郷の寂れようを見て僕は思わず目を覆いたくなった。地方は今やボロボロだ。森喜朗を輩出する強力な保守地盤では確かにあるけれど、それにしても圧勝させるこたあないでしょうに、、、。
それこそ「日本の国債がボツワナと同じ格付けだなんて許せん!」などとブ~たれる暇があったら、せめて日本の民度をボツワナ並にあげる努力をした方がいいのではないだろうか(ボツワナの民度は知らないけど、、、)。
他にも、選挙制度のこととか言いたいことはあるけど、長くなるので今日はこの辺でやめておく。
しかし、一旦、世界に出て行くということになると、どうしても軋轢を生じてしまうのでしょうね。
僕は、鎖国しろなどとたわけたことを言うつもりはありませんが、無限の経済発展などという妄想を捨てて、小さくてもいいから、経済もそこそこでいいから、もう少し肩の力を抜いてのんびり暮らしていけるような国を目指したほうがいいんじゃないかと思うんですが、、、
だめですか?なにも分かってない?
そういう意味で中村敦夫さんの落選は僕も大変残念なことだと思います。
(大江健三郎のノーベル文学賞受賞記念講演の
タイトルです)
あいまいさがよい、という部分もあろうかと
思いますが、諸外国との関係においては概ねトラブルの素となってしまっているのでは・・・
戦力なき軍隊、自衛隊なんて海外ではいったい誰が
納得するのでしょう?
選挙、それほど自民党の議席も減らず、
消去法による見せ掛けの二大政党制が加速しただけ
のようです。
中村敦夫氏は、比例代表個人名での投票で20万と
いう第5位に入る得票数を得ましたが政党全体の
得票数が及ばず落選。政界引退を表明されましたね。
マイナーな民意を反映しうる参議院、も、過去のものとなったようです。