3月8日、劇作家平田オリザ氏の主宰する劇団「青年団」のヒューストン公演があると聞きダウンタウンへ足を運んだ。演目は「ヤルタ会談」と「忠臣蔵OL編」の二本。
当日は職場を出るのがやや遅れた上、不覚にも途中、道に迷い大幅に時間をロスしてしまったおかげで、会場ロビーに到着したときは、はじめの演目「ヤルタ会談」はすでに終盤に差しかかっていた。
ところで、僕はこれまでも演劇に対する興味をそれなりに持ち合わせてはいた。ただ、わざわざお金と時間を割いてまで観にいくほど熱心ではなかった。
これまでの観劇の記憶といえば、せいぜい歌舞伎を数回観にいったことがあるのと、どこかの学園祭で素人俳優の演じる「熱海殺人事件」を暇つぶしに観たことがある程度である。ただ今回は、以前から気になっていた平田オリザという人物の手がけた芝居であるということと、ヒューストンでそれが観られるというもの珍しさからチケットを購入した次第である。
焦りつつ会場であるホビー・センターのロビーに僕が到着したのは夜の8時過ぎ。will callの窓口を探してうろうろしている間、会場内からは時折ドカンドカンと爆笑する観客の声が、がらんとしたロビーに空しくこだまして、それが一段と僕の気を焦らせた。
チケット係りのオヤジは、遅れてやってくる客などいないと踏んだのか、あろうことか奥の部屋でのんびりと夕飯をパクついていた。おかげでここでも時間をさらにロス。
やっとのことでチケットを手に入れ、そそくさと会場に入った瞬間、果たして、万雷の拍手とともに、最初の演目である「ヤルタ会談」は敢えなく終了。
したがって、「ヤルタ会談」がどういう芝居だったのかについてここで感想を述べることはできない。ただ、ロビーまで漏れ聞えていたあの観客の爆笑から想像するに、相当に面白い芝居だったことは間違いない。
さて、ということで気を取り直してもう一つの演目「忠臣蔵・OL編」である。(タイトルに“OL”と付くだけでこんなに軽薄な響きを持ってしまうのは何故だろうか?)
この芝居は読んで字のごとく、忠臣蔵四十七士の物語を、現代のOL達のおしゃべりに移し変えたコメディである。(四十七士とはいえ、実際の登場人物はせいぜい7~8人なのであるが)
幕間で観客がトイレに行ったりしているうちに、いつの間にかOLに扮した役者が二人、舞台に登場し、会社の休憩所と思しきところでお茶を飲んだり弁当を食べたりし始める。観客が気付かないうちに芝居が始まっているという寸法だ。
観客がようやく事態を飲み込んで静かになったところで照明が落ち、OL達がぼそぼそと会話を始める。そこへ一人のOLが血相を変えて飛び込んでくる
「ねー、聞いた聞いた?うちの殿がね、吉良に切り付けちゃったんだってー」
「えー?まじー? っで?殿はどうなっちゃたの?」
「その場で切腹だって!」
「えーーーーっ!?」
実際の台詞は覚えていないが、まあこんな感じでこの芝居は始まる。
ところで、そもそもあの「忠臣蔵」を、OLを主人公にして描いてしまうという設定自体がかなり笑えると思うのだが、加えて僕が可笑しかったのは、空回りする言葉のやり取りの中で、確信がなんとなくぼかされたまま、雰囲気で“討ち入り”の方針が決まってゆくというあのファジーさであった。
一方、周囲に対し自らの意見などろくに表明したことなどなかったであろうOL達が、突然降ってわいたお家の一大事に対し、右往左往しつつも自分の言葉を捜し懸命に同僚達と対話を始めようとするそのさまは、対話下手の日本社会(日本人)に対する痛烈な皮肉をも含んでいるように僕には思われた。
さて、帰りしな、ロビーで売られていた平田氏の「演劇入門」と「対話のレッスン」という本2冊を計21ドルで購入した。アパートに帰ってからなんとなく読み出したのだが、これが滅法面白かった。とくに「演劇入門」は目からうろこが落ちるような思いで読んだ。
内容は、単なる平田オリザ流の現代演劇論、俳優論にとどまらず、現代日本語論、そして現代日本社会論にまで及んでいる。
この本の中で平田氏は、日本人には「会話」と「対話」の区別がほとんどついていないと指摘する。会話(conversation)とは仲間同士のおしゃべりを、対話(dialogue)とは共通前提のない他者との間で行われる情報交換を指す。そして、日本人はそもそもこの「対話」という概念が著しく希薄なのだという。
ワークショップで高校生に演劇を書かせると、ほとんどの生徒が「会話」のみで芝居を進行させようとするらしい。あるいは、列車のなかで見知らぬ乗客同士が出会うという芝居をやらせると「ご旅行ですか?」という何気ない台詞がどうしてもいえないのだという。もちろんこの傾向は高校生に限らず、だいの大人も全く同様なのだとか。平田氏によると、このように見知らぬ他者との会話の端緒となるコンテクストをそもそも多くの日本人が持ち合わせていないのだという。実に興味深い指摘だと思う。
もちろん、彼は日本人と日本語の未来について必ずしも悲観的になっているわけではない。それどころかこの日本人独特の気質が、近い将来、世界の演劇を変える可能性すらあると彼は指摘してみせる。
まあ、とはいえ、平田氏のこの指摘は僕にとってはまことに耳の痛いものであった。
というわけで、明日から僕も人との「対話」を意識して生活してみようと考えた次第である。
当日は職場を出るのがやや遅れた上、不覚にも途中、道に迷い大幅に時間をロスしてしまったおかげで、会場ロビーに到着したときは、はじめの演目「ヤルタ会談」はすでに終盤に差しかかっていた。
ところで、僕はこれまでも演劇に対する興味をそれなりに持ち合わせてはいた。ただ、わざわざお金と時間を割いてまで観にいくほど熱心ではなかった。
これまでの観劇の記憶といえば、せいぜい歌舞伎を数回観にいったことがあるのと、どこかの学園祭で素人俳優の演じる「熱海殺人事件」を暇つぶしに観たことがある程度である。ただ今回は、以前から気になっていた平田オリザという人物の手がけた芝居であるということと、ヒューストンでそれが観られるというもの珍しさからチケットを購入した次第である。
焦りつつ会場であるホビー・センターのロビーに僕が到着したのは夜の8時過ぎ。will callの窓口を探してうろうろしている間、会場内からは時折ドカンドカンと爆笑する観客の声が、がらんとしたロビーに空しくこだまして、それが一段と僕の気を焦らせた。
チケット係りのオヤジは、遅れてやってくる客などいないと踏んだのか、あろうことか奥の部屋でのんびりと夕飯をパクついていた。おかげでここでも時間をさらにロス。
やっとのことでチケットを手に入れ、そそくさと会場に入った瞬間、果たして、万雷の拍手とともに、最初の演目である「ヤルタ会談」は敢えなく終了。
したがって、「ヤルタ会談」がどういう芝居だったのかについてここで感想を述べることはできない。ただ、ロビーまで漏れ聞えていたあの観客の爆笑から想像するに、相当に面白い芝居だったことは間違いない。
さて、ということで気を取り直してもう一つの演目「忠臣蔵・OL編」である。(タイトルに“OL”と付くだけでこんなに軽薄な響きを持ってしまうのは何故だろうか?)
この芝居は読んで字のごとく、忠臣蔵四十七士の物語を、現代のOL達のおしゃべりに移し変えたコメディである。(四十七士とはいえ、実際の登場人物はせいぜい7~8人なのであるが)
幕間で観客がトイレに行ったりしているうちに、いつの間にかOLに扮した役者が二人、舞台に登場し、会社の休憩所と思しきところでお茶を飲んだり弁当を食べたりし始める。観客が気付かないうちに芝居が始まっているという寸法だ。
観客がようやく事態を飲み込んで静かになったところで照明が落ち、OL達がぼそぼそと会話を始める。そこへ一人のOLが血相を変えて飛び込んでくる
「ねー、聞いた聞いた?うちの殿がね、吉良に切り付けちゃったんだってー」
「えー?まじー? っで?殿はどうなっちゃたの?」
「その場で切腹だって!」
「えーーーーっ!?」
実際の台詞は覚えていないが、まあこんな感じでこの芝居は始まる。
ところで、そもそもあの「忠臣蔵」を、OLを主人公にして描いてしまうという設定自体がかなり笑えると思うのだが、加えて僕が可笑しかったのは、空回りする言葉のやり取りの中で、確信がなんとなくぼかされたまま、雰囲気で“討ち入り”の方針が決まってゆくというあのファジーさであった。
一方、周囲に対し自らの意見などろくに表明したことなどなかったであろうOL達が、突然降ってわいたお家の一大事に対し、右往左往しつつも自分の言葉を捜し懸命に同僚達と対話を始めようとするそのさまは、対話下手の日本社会(日本人)に対する痛烈な皮肉をも含んでいるように僕には思われた。
さて、帰りしな、ロビーで売られていた平田氏の「演劇入門」と「対話のレッスン」という本2冊を計21ドルで購入した。アパートに帰ってからなんとなく読み出したのだが、これが滅法面白かった。とくに「演劇入門」は目からうろこが落ちるような思いで読んだ。
内容は、単なる平田オリザ流の現代演劇論、俳優論にとどまらず、現代日本語論、そして現代日本社会論にまで及んでいる。
この本の中で平田氏は、日本人には「会話」と「対話」の区別がほとんどついていないと指摘する。会話(conversation)とは仲間同士のおしゃべりを、対話(dialogue)とは共通前提のない他者との間で行われる情報交換を指す。そして、日本人はそもそもこの「対話」という概念が著しく希薄なのだという。
ワークショップで高校生に演劇を書かせると、ほとんどの生徒が「会話」のみで芝居を進行させようとするらしい。あるいは、列車のなかで見知らぬ乗客同士が出会うという芝居をやらせると「ご旅行ですか?」という何気ない台詞がどうしてもいえないのだという。もちろんこの傾向は高校生に限らず、だいの大人も全く同様なのだとか。平田氏によると、このように見知らぬ他者との会話の端緒となるコンテクストをそもそも多くの日本人が持ち合わせていないのだという。実に興味深い指摘だと思う。
もちろん、彼は日本人と日本語の未来について必ずしも悲観的になっているわけではない。それどころかこの日本人独特の気質が、近い将来、世界の演劇を変える可能性すらあると彼は指摘してみせる。
まあ、とはいえ、平田氏のこの指摘は僕にとってはまことに耳の痛いものであった。
というわけで、明日から僕も人との「対話」を意識して生活してみようと考えた次第である。
私も気にはなっていたんですが、忙しくて行けませんでした。
やはり、面白かったのですね。うらやましい限りです。広告では字幕付きと書いてあったのですが、どうやって字幕をつけていたのでしょうか?
現地の人とは笑うタイミングがやはり違っていましたか?
字幕は、OLのいる休憩所の壁(というか仕切り)の上に出てました。
平田オリザ氏によると、この字幕を出すタイミングにはかなり気をつかったそうで、0.1秒単位までこまかく計算したそうです。
笑うタイミングですが、
外国人は字幕を見て笑いますから、実際の台詞が発せられる前に字幕だけ見て笑ってる人はいましたね。
外人が笑って、ちょっと遅れて日本人が笑うみたいな。。基本的に笑うツボはあんまり変わらなかったような。。。
でも、ひとつだけ気が付いたのは。
OL同士の会話の中で切腹の話しが出たときに、
あるOLが「切腹ってさー、どんな感じなのかなー」
といったら、もう一人が「痛そー。。。」
とつぶやく場面で外国人たちが死ぬほどウケてたのをみて、「そこまでウケるこたーねーだろ」と思いましたね。