昨日いただいた幾つかのコメントを読んで、もともと無宗教の僕がなぜ宗教と人間の関係について考えるようになったのかというエピソードを今日はお話したいと思います。
僕は数年前、アメリカのある病院の骨髄移植専門病棟で数ヶ月間実習を受けました。
そこで僕は死を目前にしたある患者さんに出会いました。
その患者さんは白血病を患っていました。年のころは60歳ぐらいだったでしょうか、抗がん剤治療のため髪はほとんどなくなっていましたが、治療中であることを感じさせないくらい明るく、引き締まった表情をしていました。
病室にいくといつも奥さんと可愛らしい娘さんが付き添っていて、僕が主治医とともに病室を訪れると、きまってにこっと笑って「こんにちは先生、調子はどうですか?」と話し掛けてくれました。
彼は骨髄移植というつらい治療を受け一時は元気になったものの、しばらくして再発しふたたびこの病院に入院してきたのです。
主治医はいくつかの治療を試みましたが病状は悪化するばかりでした。
毎日の血液データは、彼の余命が残り少ないことを示していました。
ある朝、主治医と僕は回診のため彼の病室(個室でした)を訪れました。
患者さんは体力が落ち、すでにベッドから起き上がることすら出来ない状態でした。
「調子はどうですか?」
「そうだね、悪くはないよ。動くと少し息が切れるけどね、、」
「痛いところはないですか?」
「大丈夫、痛いところはないよ」
主治医は、聴診器を患者さんの胸にあてて心音と呼吸音を聴きました。
そのとき彼が主治医に向かってこう切り出しました。
「先生、私の命はあとどのくらいもつのだろうか?」
「、、、、。」
「先生、心配しなくていいよ。私は今すごく幸せなんだ。だって私はこれから神のもとへ行けるんだからね」
奥さんと娘さんが近づいて、彼を抱擁しました。
奥さんが耳元でなにかささやくと彼は大きく何度かうなずきました。
主治医はしばらくの沈黙のあと言いました
「私に今出来ることは何かありますか?」
彼は「何もないよ」と答えました。
「先生、私は死をちっとも畏れてはいない。すごく幸せな気持ちだよ」
僕は正直この患者さんと家族の態度にとても驚ろかされました。
この患者さんは、死を目前にしても尚、日本で出会ったどんな患者さん達よりも冷静であったし、穏やかだったのです。
彼らは神の存在を強く信じていました。
自分が死ぬことも“神の御心”によるものに過ぎないと彼らは考えていたのです。
この時はじめて僕は“信仰”というものが人間の精神にいかに大きな影響を与えるのかということを思い知らされました。
“死”という恐怖を目の前にした人間は、何かにすがらずには生きていけないに違いありません。
もちろん家族という存在も大きな心の支えの一つにはなるでしょう。
しかし日本においては、患者さんの苦痛をすべて受け入れる覚悟を家族の皆が共有するのにはとても時間がかかります。
それどころか患者さんが亡くなったあとですら家族はそれを受け入れられずに苦悩することが多いのです。
今まで僕はそのような状況に数多く立ち会ってきました。
しかし、アメリカで出会った患者さんおよび家族の方の多くは、
驚くほど冷静に死を受け止めていたように思います。
これは、決して信仰のせいだけではないのかもしれませんし、
もちろんアメリカ人すべてがこのように振舞えるわけではないでしょう。
しかし、“死”を家族全員で、ある覚悟をもって穏やかに受け入れられるという強さの源にはきっと絶対的な神への帰依があったに違いないと僕は思います。
僕は数年前、アメリカのある病院の骨髄移植専門病棟で数ヶ月間実習を受けました。
そこで僕は死を目前にしたある患者さんに出会いました。
その患者さんは白血病を患っていました。年のころは60歳ぐらいだったでしょうか、抗がん剤治療のため髪はほとんどなくなっていましたが、治療中であることを感じさせないくらい明るく、引き締まった表情をしていました。
病室にいくといつも奥さんと可愛らしい娘さんが付き添っていて、僕が主治医とともに病室を訪れると、きまってにこっと笑って「こんにちは先生、調子はどうですか?」と話し掛けてくれました。
彼は骨髄移植というつらい治療を受け一時は元気になったものの、しばらくして再発しふたたびこの病院に入院してきたのです。
主治医はいくつかの治療を試みましたが病状は悪化するばかりでした。
毎日の血液データは、彼の余命が残り少ないことを示していました。
ある朝、主治医と僕は回診のため彼の病室(個室でした)を訪れました。
患者さんは体力が落ち、すでにベッドから起き上がることすら出来ない状態でした。
「調子はどうですか?」
「そうだね、悪くはないよ。動くと少し息が切れるけどね、、」
「痛いところはないですか?」
「大丈夫、痛いところはないよ」
主治医は、聴診器を患者さんの胸にあてて心音と呼吸音を聴きました。
そのとき彼が主治医に向かってこう切り出しました。
「先生、私の命はあとどのくらいもつのだろうか?」
「、、、、。」
「先生、心配しなくていいよ。私は今すごく幸せなんだ。だって私はこれから神のもとへ行けるんだからね」
奥さんと娘さんが近づいて、彼を抱擁しました。
奥さんが耳元でなにかささやくと彼は大きく何度かうなずきました。
主治医はしばらくの沈黙のあと言いました
「私に今出来ることは何かありますか?」
彼は「何もないよ」と答えました。
「先生、私は死をちっとも畏れてはいない。すごく幸せな気持ちだよ」
僕は正直この患者さんと家族の態度にとても驚ろかされました。
この患者さんは、死を目前にしても尚、日本で出会ったどんな患者さん達よりも冷静であったし、穏やかだったのです。
彼らは神の存在を強く信じていました。
自分が死ぬことも“神の御心”によるものに過ぎないと彼らは考えていたのです。
この時はじめて僕は“信仰”というものが人間の精神にいかに大きな影響を与えるのかということを思い知らされました。
“死”という恐怖を目の前にした人間は、何かにすがらずには生きていけないに違いありません。
もちろん家族という存在も大きな心の支えの一つにはなるでしょう。
しかし日本においては、患者さんの苦痛をすべて受け入れる覚悟を家族の皆が共有するのにはとても時間がかかります。
それどころか患者さんが亡くなったあとですら家族はそれを受け入れられずに苦悩することが多いのです。
今まで僕はそのような状況に数多く立ち会ってきました。
しかし、アメリカで出会った患者さんおよび家族の方の多くは、
驚くほど冷静に死を受け止めていたように思います。
これは、決して信仰のせいだけではないのかもしれませんし、
もちろんアメリカ人すべてがこのように振舞えるわけではないでしょう。
しかし、“死”を家族全員で、ある覚悟をもって穏やかに受け入れられるという強さの源にはきっと絶対的な神への帰依があったに違いないと僕は思います。
対して運命に逆らうべく治療をするような自分は、
今の仕事をしている限り神を信じられそうもない、
ということに・・・
でも、キリスト教系のホスピスでは、
最期は神に全てを委ねて・・・という形になって
藤井さんのおっしゃるようなスタンスで入所者に
接するのでしょう。
例を挙げれば、重病の身の人が自分の病気と闘いながらも、その結果(回復するか、死を迎えるか)については神の意思次第と考えることです。
この世に未練が多く残っているから絶対に死ねるものか、というのが神を信じるに至っていない心境といえるのではないかと思います。
だから、神を信じるようになるには、催眠術等の暗示や特殊な方法による洗脳を除けば、相当の自覚と探究心を要することのように考えています。
それから、残された家族がどうなってしまうんだろうという不安。
正直、独り者の僕はあんまり考えてなかったです。でも考えれば(考えなくても)至極当然の感覚ですよね。
それこそ、モルヒネなどをてんこ盛りに、は、
全然「あり」だと思います。
死に際しての痛み・苦しみがないことは、
死に対しての恐怖をいくらかでも緩和するはず、と、
信じております。
ただ、自分という存在が失われる恐怖は、
また別のものですよね。これは、神の元に
還っていくんだ、と考えることで緩和されるかも
しれません。
また、自分が死んだら家族はどうなってしまう?などの不安もまた別にあるでしょう。これについては
各宗教はどんな救い・癒しを持っているのでしょう?
自分にはあまり想像できないのですが。
洗脳されて・・・ということについては、
宗教の名の下に行われる自爆テロを思い起こします。
自分の意志で神を信じるようになることと、
洗脳のような形で神を信じ、殉じていくこと。
二つは途中経過の違いにすぎなくなっていて、
最後は自爆という同じ行為に行き着いているわけで、
状況によっては、宗教と洗脳は変わらない、という
ことになると思います。
実は、僕も同じことを考えます。
苦痛が大きくなければ、人はそれほど恐怖を感じないのではないかと思います。
今回ここで紹介した患者さんに関しても、
「痛みがない」ということが、穏やかでいつづけられる理由としてはかなり大きかったのかもしれないなーと思います。
苦痛を取り除くということがいかに重要な要素であるか、、神を信じつづけようとする精神活動をいかに挫くことなく維持できるかということは、これもまたとても重要なポイントなのでしょうね。
>「神の存在」を信じていても、「神」を信じるところまではいっていません。
なるほど。その感覚とてもよくわかります。
おそらく僕も含め、そのような境地に達することがどうしたら出来るのか、とても興味深いところではあると思います。
そのうえで、では「神」を信じるということは果たしてどういうことを意味するのでしょうか?
たとえば、ぶっちゃけた話ブレインストーミングされちゃった状態というのとどう違うんでしょうか?
紙一重なのでしょうか?
ある手法をもって意図的に行われる“洗脳”と自分の意志でその境地に至るということとの違いなのでしょうか?
変な問いかけですみません。
すごく気になったものですから、、。
死が怖いのはなぜでしょう?
やり残したことがあるから?(う~ん、子供が小さい場合は切実だな。)
死ぬ前に痛かったり苦しかったりするかも知れないから?(絶対やだ。あっという間に呼吸が止まるほど麻薬をもってほしい。冗談で言っているのではありません。)
信仰心がこれらの疑問や恐怖を自分で消化するのに支えになるのでしょうが、絶対的な信仰心を持つというのは大変なことですよね。それこそ遠藤周作の沈黙やドストエフスキーの本などには信仰心を持っているが故の苦悩や恐怖が書かれていますよね。
信仰心をもてるようになることも、死を受容できるようになることも日々の精神的な成長がなければ難しいのですね。
私自身の現在の心境は、「神の存在」を信じていても、「神」を信じるところまではいっていません。この違いは大きいと思います。だから、今の時点で私が死に直面したら、多分動転し、恐怖に駆られることでしょう。
本心から神を信じ、死を受容出来るようになるのが私自身の目標です。
My Life is in Your Handsの歌詞をみて
ダイアンさんのおっしゃりたいことがよーくわかりました。
自分はそういう、“宗教の持つ意味”についてもっと知りたいなーと思うんです。
こっちに来て、ためしに教会につれてってもらったこともあるんですけど、まあ、数回行ったぐらいでは分かるはずもなく、疑問は深まるばかりです。
自分もいつかこの人たちのような心境に立てるようになるのかなーと漠然と考えています。
そうかー自分がいなくなっても変わりはいくらでもいるんだ。
そういう状況っていやでしょうね。わかるなー。
ただ、もしその入れ替え可能性が仮になかったとしても、それが死を受容する支えになるのか?って少し不思議にも感じますね。
ちなみに遠藤周作の奥様も確かクリスチャンでしたよね、
以前奥様の講演を聴く機会がありましたが
やはり、m-taruさんと同じようなことを述べられていたと記憶しています。死を目前に控えた人間を家族としてどのように受け入れてゆくのかというお話だったと思います。
自分の存在が今にも消えてしまいそうなとき、
すがるものがあるというのは幸せなことなのでしょうが、おそらく自分がどこまで信じられているのかっていうコミットの度合いのほうが大切だったりするのかもしれないなどと思うこともあります。
そしてPow on!さんいつもありがとうございます。
そうですか、Pow on!さんも医療従事者でしたか。
新興宗教が、既存のメジャー宗教と救済の方向性が違うと言う話はとてもおもしろいですね。
いわゆる新興宗教の存在ついても個人的に興味があります。
また、いつかそんな話もしてみたいですね。
病状によっては、仕事もしくは社会復帰が難しいでしょうし、私自身は、一部のアーティスト以外は仕事をしてくれる代わりはいくらでもいるものと思っています。その点、家族はかえがきかないものですよね。 自分以外に代わりがいない、確かなものがある人は本当に幸せなのでしょう。
いろいろな死の現場に立ち会いますが・・・
なかなか穏やかな最期、というのは難しいですね。
自分の印象として、多くの新興宗教は穏やかな死とは
無縁ということでしょうか。多くの新興宗教は
現世の利益を求め、医療の現場ではすなわち病気に
「勝つ」ことが利益となります。
そうなると、治る見込みのない終末期に於いては
得られる利益が期待できなくなり、そこで、新興宗教の
存在価値がなくなってきてしまうことが・・・
そんな場面を何度か見たことがあります。
たしかに、本当に帰るところを持っている、というのは
非常に気持ちが強くなれることなのかもしれません。
天国への入り口だからなのかなと
思うんですよね。
決して終わりじゃない、
始まりであり、お家へ帰ろう!みたいな。
ブラックゴスペルの歌詞には
本当にそういうのが多いです。
有名なPrecious LordとかAmaizing grace
なんかもそう歌ってますよね。
本当に帰るところを持っているのは
強いかもしれませんね。