今日は軽い話をする。
先日地下鉄に乗っていたときのことである。
閉まりかけの扉めがけて年のころ30歳前後の若い男性が突っ込んできた。
どうみてもかなり無謀な駆け込み乗車であった。
「絶対無理に決まってんじゃん」と思って見ていたその時、男は案の定勢い余って扉の直前でコケてしまったのである。
車掌がそれに気づいたからかどうかは知らないが、一旦無常にも閉まりかけていた扉が再び開いた。
コケた男はしたたかお尻を打った様子だ。
僕は扉のすぐ横の席に座ってそれを見ていたのだが、
次の瞬間、僕の回りに座っていた5-6人の男たちがいっせいに立ち上がりこの男のところへ走り寄ったのである。
彼らは口々に「大丈夫か?怪我はないか?」などと声をかけながらその男を助け起こすと、男の尻をはらってやりながら車内へと誘導し彼を席に座らせた。
幸い怪我はなさそうだ。
男は「平気だよ、大丈夫。ありがとう。全く災難だったよ」などと笑顔で答え、車内はしばしこの男を囲んで和やかな雰囲気に包まれた。
でもって僕はこの一連の出来事をある種の驚きと自責の念をもって見たのである。
このような光景はまず日本ではありえないだろうと思った。
もし、日本の地下鉄で同じようなことが起きたら、きっと乗客は見て見ぬふりをするに違いないと思った。現に僕も全く動けなかったし、正直に言うならば助けに行こうという意思が自分の中に芽生えていたのかすら確証がないのだ。
多分、自分がこの男に一番近い場所に座っていたのは間違いないのに、僕にはなーんにも出来なかったのだ。
その後、僕は考えた。
僕以外の日本人の何人がこの場面でとっさに行動できただろうか?
これは僕個人の資質の問題か?あるいは日本人独特のメンタリティの問題か?
もし、これと同様のエピソードが日本で起きた場合はたしてどうなるか。
僕の予測はこうだ。
男がコケたのを見て、つり革につかまってスピリッツかなにかを読んでいた若いサラリーマンが「あいつ大丈夫かよー」という。
次に、ケータイで必死にメール打ってた女子高生が隣の同級生に「今のマジ痛ったそーだよね」という。
次に、ちょっと正義感に燃えた大学生が「誰か助けてやらねーのかよ」とつぶやく。
次に、コケた男がばつが悪そうに立ち上がり「ったく、、。」と言葉にならない捨て台詞を吐いてほんとは電車に乗りたいはずなのに乗らずに、なぜかホームの向こう側に歩いていってしまう。
次に、扉が閉まり電車がゆっくり走り出す。
次に、乗客が走り始めた電車の窓からホームに残った男の照れくさそうな顔をちらちら見る。
そして最後に、車内アナウンスが流れる
「えー、危険ですから駆け込み乗車はおやめください」
先日地下鉄に乗っていたときのことである。
閉まりかけの扉めがけて年のころ30歳前後の若い男性が突っ込んできた。
どうみてもかなり無謀な駆け込み乗車であった。
「絶対無理に決まってんじゃん」と思って見ていたその時、男は案の定勢い余って扉の直前でコケてしまったのである。
車掌がそれに気づいたからかどうかは知らないが、一旦無常にも閉まりかけていた扉が再び開いた。
コケた男はしたたかお尻を打った様子だ。
僕は扉のすぐ横の席に座ってそれを見ていたのだが、
次の瞬間、僕の回りに座っていた5-6人の男たちがいっせいに立ち上がりこの男のところへ走り寄ったのである。
彼らは口々に「大丈夫か?怪我はないか?」などと声をかけながらその男を助け起こすと、男の尻をはらってやりながら車内へと誘導し彼を席に座らせた。
幸い怪我はなさそうだ。
男は「平気だよ、大丈夫。ありがとう。全く災難だったよ」などと笑顔で答え、車内はしばしこの男を囲んで和やかな雰囲気に包まれた。
でもって僕はこの一連の出来事をある種の驚きと自責の念をもって見たのである。
このような光景はまず日本ではありえないだろうと思った。
もし、日本の地下鉄で同じようなことが起きたら、きっと乗客は見て見ぬふりをするに違いないと思った。現に僕も全く動けなかったし、正直に言うならば助けに行こうという意思が自分の中に芽生えていたのかすら確証がないのだ。
多分、自分がこの男に一番近い場所に座っていたのは間違いないのに、僕にはなーんにも出来なかったのだ。
その後、僕は考えた。
僕以外の日本人の何人がこの場面でとっさに行動できただろうか?
これは僕個人の資質の問題か?あるいは日本人独特のメンタリティの問題か?
もし、これと同様のエピソードが日本で起きた場合はたしてどうなるか。
僕の予測はこうだ。
男がコケたのを見て、つり革につかまってスピリッツかなにかを読んでいた若いサラリーマンが「あいつ大丈夫かよー」という。
次に、ケータイで必死にメール打ってた女子高生が隣の同級生に「今のマジ痛ったそーだよね」という。
次に、ちょっと正義感に燃えた大学生が「誰か助けてやらねーのかよ」とつぶやく。
次に、コケた男がばつが悪そうに立ち上がり「ったく、、。」と言葉にならない捨て台詞を吐いてほんとは電車に乗りたいはずなのに乗らずに、なぜかホームの向こう側に歩いていってしまう。
次に、扉が閉まり電車がゆっくり走り出す。
次に、乗客が走り始めた電車の窓からホームに残った男の照れくさそうな顔をちらちら見る。
そして最後に、車内アナウンスが流れる
「えー、危険ですから駆け込み乗車はおやめください」
どうなんでしょうね、本当は・・・。
そして、私自身がその場に居合わせても、何もせず黙って有らぬ方向を向いて座ったままでいるでしょう。心の中では、仕方ないさという気持ちとバツの悪さの混ざった気分を味わいながらも。
でも、それは自分の知らない人だからで、知っている人だったら助けに行くはず。
大切なのは、自分自身が味わったバツの悪さを心にしっかり留めておくこと、知らない他人も親しい知人も困っている時は同じなんだと意識しておくことでしょうか。
私自身も、教訓にしたいと思います。良い話有難うございました。
きっととっさに動ける人たちって言うのは反射的に体が動くんだと思います。
小さい頃からそういうふうに育てられて訓練できてるってことなんでしょうかね。
あるいは、ひょっとして宗教的な献身さがここにも関与してるんでしょうかね。
とにかく、アメリカ人はいろんな意味でブレない人が多いと思います。他人がどう思っていても自分の価値観が大事っていうか、、、
僕達日本人って自分の価値観はまず二の次ですよね。
とりあえず、体勢の動きをみてなんとなくそれに従ったりしちゃいますよね。
“自分の考えと違う!”とか周りにブーブーこぼすんだけど結局従っちゃうんですよね。
こういう精神構造をよく友達のヨーロッパ人から冷やかされるんです。
“Why do you always obey?”って。
それが日本古来の共同体的メンタリティなのだといわれればそれまでなんですけど、、
体制に逆らうとかそういう大げさな次元ではなくて、ほんのちょっとした事柄について、素直に自分の価値に基づいて行動できるということがどうして僕らには難しいんでしょうかね?
席をゆずらなかった若者を、わざわざ隣の車両から
外国人(国籍不詳)がやってきて注意し、席を譲らせた
お話がのっていました。
席を譲ることも、人前で転んだ人を助けることも、
今の日本では少々「おっくう」とかいう範疇に入って
しまう行為になっていますね。何ででしょう?
戦前にはそんなことはなかった、と主張する向きも
ありますが、どうなんでしょうか。
日本人特有のいびつでぶきっちょな感情表現などというものは、決して誉められるものではないと思います。
お年寄りに席を譲ることが“億劫”な社会ってどう考えても健全じゃないですよね。
ちなみに戦前がどうであったか僕にはわかりませんが、
司馬遼太郎でも読んでもう少し勉強してみたいと思います。