朝テレビをかけていた。何気なく見ていた。テレ朝モーニングショーである。
小学校6年生の子供が同級生に90万円だまし取られたというニュース。一応貼っておこう。
玉川さんが親の価値観を子供が受け入れて・・・そんな感じのことを言っていたように記憶している。その通りなんだろう。子供が「金Goldの価値が・・・」と言っていたというんだから、子供がそういう見方を初めからするわけがないので、親の受け売りに違いない。親じゃないとしたら世間でしょう。
僕が子供の頃、お金のことなんか気にして生きていたかなあとフと振り返って見る。まあいいとこ100円程度のお金は身近であったけど、93万なんて無関係に生きていたと思う。まあ僕は60近い年齢なので、この半世紀時間の経過が、子供のお金に対する意識を変えてきた、そんな事例なんだと思う。
番組の中では、お金の大切さとか、株ってなんなのかを教育するとか、そんな話をしていたよう。僕は違和感を抱く。結局このような考え自体が現代社会でのお金の地位が高いこと(僕は高すぎると思う)を強化する言説であったと思う。
僕はお金は価値ではないと考える。ところが、現代社会ではお金になるものが価値があるという信念が広まっている。そうすると、価値はお金で数えられるものになってしまう。
以前このブログで取り上げたことがあると記憶しているのだが、経済学者神野直彦が『経済学は悲しみを分かちあうために』で言及していた考えである。お金が大切なのではなく、お金にならないものが大切であるとことである。
神野先生は子供の頃、母親にそう教えられたのだと言う。ちょっと以前のブログをコピペさせてもらう。
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神野直彦著『経済学は悲しみを分かち合うために』岩波書店、2018年。
こんなエピソードが綴られている。神野先生が子供の時、遊んでいて帰ろうとすると、自転車の鍵がない。そこで必死に探したけれど見つからなかった。ずいぶんと遅くになったのだろう。家に帰ると、遅くなったので心配していた「母が走り寄り、私を優しく抱きしめた」そうだ。
通常より遅くに帰ってきて、まず最初の母親の反応が、我が子の無事に安心したということだ。遅く帰って、「何やってたんだ」などと叱られることもあるような気がするが、ただ我が子の無事を喜ぶというのに、愛情が優先されている。
神野少年は遅くなった事情を話した。そこで母親は「信じられないほど強く叱った」というのである。そして次のような言葉で彼を諭したという。
「いつも教えているでしょう。お金で買えるものには価値がないと。自転車はお金で買えるでしょう。そんなもの、捨ててらっしゃい」
カッコいい母親だ。愛情が土台となっているからこそ、「心配かけること/かけないこと」の方が、お金より重要だと知っているのだ。僕は「くに(国家ではなく故郷)」とはこのような母親がいる場所だと思う。
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日本で一番と言っていいほど経済を考え尽くしてきた先生の言葉である。傾聴すべき。
例えば本を買う。しかしその本を読み付箋を貼り、赤線を引いて、余白にメモを書き込む。綺麗な本とボロボロになった本、どちらが価値があるだろう。当然ボロボロの本である。この世にこの本はたった1冊しかないだけではなく、その本には読んだ人間の思考の跡が残っている。それが価値である。
キレイな本はちゃんと金額がつく。それが社会の経済を回すための便宜である。それだけに過ぎない、ところが金額が付く本はその金額の価値があるとの信憑が蔓延る。実は便宜を本質としている転倒がここになる。
経済とは社会がうまく回るための便宜にすぎないのだが、あたかもお金を本質とすることを批判することが、そういう経済学批判を組み込んだ真の学問としての経済学が存在する。
だから神野先生の母親のように、子供には「お金は大切ではない」と教えるのが教育である。