母親が入院していて、状況が悪くなった。
弟からLineでの報告。ある意味覚悟してもいるのだが、人の死に想いを馳せてしまう。そんなやりとりを弟としていた。その中の話を少しばかり。
弟が父親の生まれた年がわからないと。
父親は僕が小学校5年生に事故で亡くなった。弟は2年生。で、僕は知っているので答える。「昭和8年生まれ」と。昭和8年、1933年。僕は「戦争に突っ込んでいく契機になる年かなあ」と。
弟もそういう話で返答してくる。2人の間には、戦争に対する想いが共有されている。
弟は歴史、特にEHカーの話を持ち出し、歴史に対する意識を綴る。僕はそう理解した。
僕の方は極私的な位置から、父親が早く亡くなってしまったことの意味を考える。
父親が生きていれば、戦争当時子供だった父親が何を思い、あるいは考えたのかを聞くことができたのではないかというのが、僕の思い。弟は当時の学校文化の有り様程度(つまり国民学校)ましてや田舎だからという応え。
僕は異なる角度から見ていた。実際子供の父親がどう見たのかは父親でなければわからない。そして、父親が何を感じ、あるいは何も感じないとすれば、そのような社会状況、あるいは個人の状況を考える機会になると。
ところが父親は僕たちが子供の頃亡くなってしまった。だから聞くこともできない。実は最も身近な人からの話を聞く機会を失っていた・・・そう考えるしかない。
人が亡くなること、それは話をする機会の喪失。作られたであろう記憶が不可能性を帯びて、ぼんやりと幽霊のように存在している。そんな非−経験なのである。
父親が生きていれば90歳を超えていた。どんな話ができたのだろうか。