テレビでは菅が総理大臣になるということで、菅総理PRが繰り広げられている。地元秋田では、総理にまでなったと賞賛。これまたテレビで取り上げられ、P R。地元の人が偉くなったと喜んでいる。エンターテイメントに終始するメディア。いつものこととはいえ、日本の民主主義はこのような通俗的な道徳観に終始し支配されている。
ところで菅総理は「自助・共助・公助」を目指す社会像としてあげた。
「まず自分でやってみる。そして地域や家族がお互いに助け合う。その上で、政府がセーフティーネットでお守りをします。さらに縦割り行政、そして前例主義、さらには既得権益、こうしたものを打破して規制改革を進め、国民の皆さんに信頼される社会を作っていきます」
https://news.yahoo.co.jp/byline/kimuramasato/20200915-00198462/より
実は僕もこのような考え方に留保つきで賛成する。
しかしながら、菅総理の認識は直線的なプロセスとして、このような社会像を見出しているように見える。そこで問題になるのは「自助」か「支え合いの社会か」という二項対立的な社会像を立ち上げてしまうことだ。
当然このような社会像で思い起こすのはサッチャーによる「社会は存在しない」という考えからの新自由主義的思想であり、「支え合い」の喪失である。ホームレスが「家がない」といえば、政府の問題ではなく、その個人の問題であり、その個人の家族や共同体の問題という認識になる。次に社会であるが、結局は個人や家族、共同体の問題との認識であるから、社会は出てこないし、国家も出てこない。だから「社会は存在しない」ということだ。
欧米では共同体の一番広い枠組みが国家であったが、そういうセーフティネットとしての国家を失い、個人は困り果てるのである。なぜなら困る個人の環境を構成する家族や共同体自体が困る個人を生み出す母体なのであるから、共助自体が難しいのだ。
そこで自助、共助、公助は直線的なプロセスとしてあるのではなく、循環的、相互的な関係プロセスにあることがわかる。個人が貧困に陥れば、それを自助で乗り越えるためには、共助は必要だ。しかしながら、共助する力のない共同性でしかなければ、そこで社会や国家が助ける公助になる。
共同体の力がなければ、その共同体の子供は生き難い。しかしながら、少なくとも生活する力を公助が与えれば、今度はその子供が共同体の力になり、社会や国家の力になる。自助は公助の基盤に、公助は自助の基盤にさえなる。
ゆえに自助を優先すれば、共助と公助は後退する。これらは循環なのである。
というかそんな理屈より、政府が“自助が1番に優先”などと言うのなら、政府は不要だ。個人が勝手にやればいいし、市民(共同体)が勝手にやればいいのだから。ということで、菅政権のスローガンはアナーキズムになります。
そもそもこの「自助、共助、公助」は共同体が弱体化したことを受けて、共助を重視する社会にしようとの考えから生み出されたものだ。それは自助から帰結する利己主義や自己責任論、公助のシステム依存への批判からの考えである。
「そのような指摘は当たらない」「全く問題ない」と言われるだけか。