安倍政権になってから、なんか日本が変わっていくのではないかと感じている人が多いように思う。憲法改正議論とか集団的自衛権の問題だとか、森友加計だとか、嘘ついているとか、まあいろいろである。
憲法論でも見られるのだけれども、国家が国民に道徳を与えるかのような考えをもっているようである。その流れで学校教育に「道徳」という科目を入れてみたり、その反対に「現代社会」を廃止し、「公共」という科目にしようと目論んでいる。じつは公共という考えは市民の反対を押し切るために作られた方便のような考えであった。まあ「公共のため」と言われると、僕たち弱いでしょ。道徳的な感じがするもの。権力側が公共というのと、市民が公共というのでは全然違ったりするわけである。
道徳という点では、ニーチェがその性格をあらわにしていると思うので、そこの所を取り上げてみたいと思う。ニーチェで道徳というと、『善悪の彼岸』『道徳の系譜』なんかをまず思い浮かべる。ルサンチマンとか禁欲主義的生活の肯定(ニーチェはそれを批判するわけだけれど)とかキリスト教道徳が弱者の味方をするといった議論だ。ニーチェの議論は道徳が強制されているものであるという事実が隠蔽されており、それを暴露し続けるという面白さがある。例えば、『人間的、あまりに人間的!』には以下のような部分がある。引用させてもらう。
あるいっそう偉大な個人か、たとえば社会・国家という集団的個人かが、個々の人々を屈服させ、したがって彼らの孤立化から引きずり出して一
つの団体に秩序づけるとき、そのときはじめてあらゆる道徳性の地盤が整えられるのである。道徳性には強制が先行する。それどころか道徳性そ
のものがなおしばらくは、人が不快を避けるために順応する強制なのである。(『人間的、あまりに人間的!』より)
ここでニーチェが指摘していることは、道徳は人間の内面から沸き上がるように見えながら、そのじつ、知らず知らずのうちに外部から強制されている、そういう感情であるということにある。この道徳観はカントのそれとは大きく違っているけれども、それはカントの道徳の中身を検討すれば、両者の道徳はそれが指し示す中身というか意味が違っているように見える(これについては、ここで議論しない)。強制されているのに強制されていることに気づかないといった意味では、ハイデガーの科学批判、Gestell(徴発性)に近いと思われる。
ニーチェによれば、人は不快を避けるために、彼がいう道徳の内実を人々が信じるのだという。しかも、時間が流れていく中で、その感情はあたかも普遍的、あるいは自然なもののように思われ、そのような普遍、自然を支持する、信じることは快にまで高められるというのだ。
道徳は自然な感情ではないのだが、自然なものとして振る舞う。そこで隠蔽されているのは「あるいっそう偉大な個人か、たとえば社会・国家という集団的個人かが、個々の人々を屈服させ」ている事実なのである。だから、僕らはこれらに快を感じるだけではなく、徳と呼ばれるようになるし、翻って、この道徳を否定する者、批判する者に対して嫌悪感を抱き、屈服させたいとの欲望をもつ。
実際、文化人類学を見てみると、このような文脈での道徳が自然な感情ではないのではないかと考えさせてくれることがある。
(つづく)
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