Drマサ非公認ブログ

ニーチェの道徳論からの雑感⑵

 人間とは何であるのか、いつからが人間なのかはいろいろな説があるとは思う。東アフリカに人類が誕生したのが600〜700万年前と言われる。古代国家ができたのが5000〜6000年前。とすると、国家なるものに人間が影響されるようになったのはつい最近のことということになる。

 では、古代国家以前の人々にとって、道徳のように人々の行動を推進したり抑制したりする規範はなかったのだろうか。当然欲求とか本能というものがあるだろうが、それらは道徳のように人々の行動の善悪の判断という類いのものではないだろう。ひとつ仮説的にではあるが、次のようなことを考えてみることができる。一緒に生きている者達との間に生まれる関係性が要求したり、抑制したりする規範が生まれ、明確になることである。それは社会的な役割でもある。この時、人々の集団性は小さい。いわゆる部族社会になる。農耕のような富の蓄積にはほど遠い狩猟採集生活である。彼らの規範は当然部族の中で結実する。つまり、道徳と言っていいのかどうか明白ではないが、少なくとも道徳の芽生えのような規範が生じている。この規範は目に見える範囲で適応するしかない。小さな共同性の中だけ、具体的に関係性を有し、皆に知られている。だから非常に現実的(Real)な様相である。

 古代国家になると、農耕が発達し、富の蓄積が可能になる。よく指摘されることである。と同時に、その共同性は古代国家以前のように目に見える範囲を超えだし、知らない者同士を国家のメンバーとさえしてしまう。だから、共同性は具体的、現実的(Real)な様相を逸脱し、抽象的、想像的な様相を帯びざるを得ない。古代国家や何やら権威のある王が存在することを知り、実際に王が活動し、その影響を感じれば、この想像的なものの現実性が強化される。目に見えないというのに、現実性(Virtual)を有してしまう。ここで人々が行う行動にはすべてとは言わないまでも、先の古代国家以前の人々がもつ行動のありようは変化している。現実(Real)と思っていることがじつは想像的な現実(Virtual)であることを見逃してしまう。この現実(Virtual)が要請して来るもの、それこそが道徳である。

 ニーチェに倣えば、道徳性に強制が隠されているのはVirtualをRealとしている点にある。ベネジクト・アンダーソンが『想像の共同体』で、近代国家がナショナリズムを作り出し、出版資本主義がそれを強化すると論証しているが、じつは古代国家において、すでにナショナリズムの種は生成されていたのである。国家への帰属を必然とする意識が胚胎するのは当然なのであるが、ニーチェに言わせれば、しかしながら強制であり、ニーチェが希求する自由ではないというのである。

 ここで、確認しておきたいのはRealとVirtualの水準での規範は異なっているということと、Realは失われないということである。Realは亡霊のようにわれわれに影響を与える。ゆえに、ニーチェは亡霊を呼び出しつつ、Virtualが真に現実ではないと詠うわけである。

 実際、僕たちが道徳的であると信じていることがそうでもないと思わせる場面がある。

(つづく)

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