そもそもhappyなんて薬物で感じられます。男なんて、ちょっとかわいい女性が目の前に通るだけでデレデレになります。その程度のことなのです。こういうことを利用すれば、洗脳だってできますから、happy至上主義はヤバいとさえいえます。
芸能人でも、スポーツ選手でも、もちろん一般の人々でもいいのですが、薬物に溺れることがあります。何か人生に不満があるのか、より才能を求めるのか、手を出してしまうのでしょうか。薬物を利用すれば、一瞬happyになります。
薬物に依存する結果はどうなるでしょう。断る必要もないでしょう。もちろん彼らが立ち直ることを協力できる社会である必要はあります。切って捨てるなど、ありえません。
さて薬物依存を異なる側面から言い直せば、happy依存です。Happyを生み出す社会構造を振り返ると、彼らを取り巻く環境がhpppyに依存しなければやっていけない状況かもしれないのです。
薬物では身近に感じられないかもしれません。アルコール依存、異性依存、買い物依存、パチンコ依存・・・と少し身近なことに引きつけてみれば、人間誰しも、そういう面があるはずです。ブランド物に依存し、買い物すると、happyになり、自己充足感をえるかもしれないのですが、ローン地獄に陥るかもしれないのです。それはwelfareにヒビがはいいてしまう結果にさえなってしまいます。
少し短絡的だとは思いますが、こういう時、「人生終わり」などと言うのです。ですから、モノによっては程度問題なわけです。程度をわきまえること、つまり「わきまえる」との意味を知っているか否かが問われるのです。「わきまえる」とは、分別のことでしょう。
ひとびとはhappyを求めて生きているようにみえます。「人生楽しくなくちゃね」などと。それはいいですが、「人生には苦しみもある」のが現実です。楽しいことにのみ目を奪われて、苦しみを苦しみと感じられない、他者の苦しみに共感できないとしたら、それこそ心が作られていないことになります。だから「人生楽しくなくちゃね」は時と場合であったり、ほどほどであったり、苦しさや悲しさがあるから発せられる言葉なわけです。
それが現実ですが、現実を見ないで、ちょっとした心理的充足感、臨場感を求めて日々突き進んでいるように見えます。メディアや広告はそういうことをわれわれに欲望するように仕掛けてきます。何かがズレています。ちなみにこのような現実を見る力を持つことは、人間の基本のように思えます。
(つづく)