お金が跋扈する世の中であるが、僕はいつも違和感を抱く。
商品が一般的な富として流通し、それらを財産とし、その財産を測ることを可能にするのがお金(貨幣)であるとする社会。それは近代社会において徹底的に発達した。そしてこれが近代社会の仕組みなのだが、どうしてお金がそのような特権的な地位になっているのかを解明したのはマルクスである。
でも世の中にその理論が浸透しているわけはなく、ただ近代社会の仕組みの中で右往左往するだけだから、当然お金に右往左往する。この仕組みでお金(貨幣)が成立するメカニズムを価値形態論とマルクスは命名した。
価値形態論の詳細は省くことにして、物々交換から初めて、あらゆる商品をつなげ、それら商品の価値全てが単一の「等価形態」によって表現される。これがお金(貨幣)です。
とすると世の中の物事がどんどん商品になればなるほど、全てがお金で表現可能になっていく。資本主義とは全てのものが商品になる世界とは、まさにマルクスの言葉だが、いま現在もなんでも商品になっていく。
例えば、昔なら近所のおじさんに頼べば済んだことが、どこかにお金を払って依頼するようになる。自分で味付けしていたものが、今や企業が提供するインスタントな商品での味付けがデフォルトになっていく。鍋料理の素のような商品は便利のように見えて、お金を媒介にして手にいれる味付けになっていく。母親が味付けしたモノではなく。別に父親でもいいが。
こうやって生活全般がどんどん商品として目の前に現れる。そうすると、それら商品を手に入れるための手段(メディア)は当然お金なので、お金が重要である度合いは上昇せざるを得ない。
生活領域全般の手段(メディア)がお金になる社会である。それに私たちは適合するわけである。だから企業や行政からのモノとサービスが良くなることは、すなわちお金が常に媒介することであるから、お金を重要視する精神を強化する。
これらと反対のことが、自律である。なるべく自分でやること。仲間でやること。
そういえば、マルクスがお金が神になるメカニズムを書いていたので、次回はそれを簡単に。