マルクスはお金の特権的地位の説明のために、フィヒテ哲学を批判します。
フィヒテは自我の哲学とされます。「私は私」という哲学なのですが、我々の通俗的な実感に訴えるように思えます。何かに依拠するわけでもなく、私は存在していると思っているでしょう。独我論に続くような感じですが、マルクスはそれを批判します。
人間ペテロは、彼と同様の人間パウロに関係することによって、初めて人間としての私なるものを見出す。一応確認しておくと、ペテロはイエス・キリストの一番弟子で、パウロはそのキリスト教を迫害した人物で、キリスト教に改宗。この時にパウロがキリスト教信仰を強めたのは、ペテロがパウロの信仰を認めたからである。パウロはかつての迫害等々、劣等感を抱いていたのだが、この時、宣教の同志として認め合う。
これはアイデンティの物語である。パウロはペテロという他者に認められることによって、自己を位置づけることができた。パウロが自分を自分として認識するには、どうしてもペテロという他者がいる(存在)のである。だから「私は私」というためには、その間に他者が媒介しなければならないことがわかる。最近このようなメカニズムを承認などと言っていることが多い。
面白いものだ。自分を自分と認めるには他者という鏡が必要なのだ。人間は他者の中に自分を映して見ているわけだ。ペテロにとって、パウロは私を信仰者として、人間として認めるのです。この時、ペテロは信仰者を代表していますし、人間を代表しています。ペテロは人間を代表しているのですから、普通の人間を超越した特別な存在です。
このメカニズムがお金にも働いていると、マルクスは言うのです。商品というレベルでは、Aという商品はパウロです。どうしてもAという商品は、誰かに認められると、その価値を自らが認識するのです。ですからがペテロが必要です。
通常この流れは、商品Aを誰かが手にすることです。誰かが買うことによって、認められるわけです。ただこのままではなく、手にする時、普遍的超越的なペテロのような代表する存在が必要です。ですから、それは商品を代表してしまうお金(貨幣)です。ここで商品とお金は対等ではなく、お金の方が優位な存在であるかのように見えます。お金はペテロのように商品を超越した存在になっています。両者の関係は非対称的です。
でも、なんだかインチキくさいのですが。