Drマサ非公認ブログ

人間は使い捨てであるとの考え

 2010出版の本からなので、少し時間が経ったのだが、何か教えられたと感じたので、その内容について記そうと思う。

 

 清水康之・上田紀行著『「自殺社会」から「行き心地の良い社会」へ』講談社文庫2010年

 

 清水さんは自殺対策支援センター「ライフリンク」代表、上田さんは文化人類学者で『宗教クライシス』『生きる意味』(どちらも岩波書店)など著書も多数、僕も著書のいくかを読んではいた。二人の対談形式で構成されている。

 著書の中で、当時の小泉純一郎首相が「政治家も使い捨てだ」との発言を行った。そこでのワーキングプアの反応が「小泉さんは、僕たちのことをわかってくれている」「人間が誰でも使い捨てだということをはっきり言ってくれた」というものであった。

 当時のワーキングプアより世代も上の僕であれば、「人間が使い捨てであっていいはずがない」と考える。実際上田さんは『かけがえのない人間』(講談社)という著書を持っているくらいなので、僕の考えと重なるはずだ。

 ところが、彼らにとって「人間が使い捨て」というのは眼前の事実として受け止められている。だから「人間が使い捨て」ではなく、「かけがえのない存在」だとするのは、事実誤認であり、厳しい現実を見ていないということになるわけだ。政治家さえも使い捨てであって、誰もが使い捨てなのは、時代のデフォルトだという認識なのだろう。人々はそこで共感したというのである。

 少し僕なりの考えを加えておくと、共感は普通良い意味だ。共感を失っているから、利己的になるわけだから。ただ共感には落とし穴がある。共感と言いながら、他人の考えに乗っ取られていることがあるからだ。そうすると、彼の共感に基づき構成される人生は、彼の人生でありながら、他人の考えによる人生なのだから、他人の人生のようなものだ。心が支配されているわけだ。

 このような世界認識(人間は使い捨て)は、ワーキングプアだけではなく、社会全体に広がっていく。

 上田さんが学生に「人間は使い捨てだと思う人?」と質問したところ、20歳の子の半分が挙手をしたという。

 僕の世代の認識、つまり人間は使い捨てではない。次にワーキングプアは、人間は使い捨てに共感する。そして次の世代である学生は、人間が使い捨てであるというのを共感も必要とせず、自明の認識となってしまった。

 これだけの話で、簡単に結論づけられないが、人間が使い捨てであることを自明とすることからの、社会の見え方、人生の見え方、他人の見え方が出来上がっているのではないだろうか。

 かつての社会・人生・他人の見え方と僕世代のそれらの違いに愕然とする。社会のよくないところがあるならば、それを改善しなければと僕たちは考えるが、彼らにとって「改善しなければならない」などということが嘘っぽいことになるだろう。

 そうすると、彼らの認識や行為は現状維持的なものになることは想像に難くないように思う。

 しかしだ。彼らの「人間は使い捨てだと思う」との認識が正しいとするためには、彼らの認識が正しいと決定する一つ上の審級が必要だ。

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