水泳でオリンピック代表の池江瑠璃子さんのTweetが話題のようだ。
オリンピックに反対する人が、池江さんにオリンピック辞退を訴えるように働きかけたという事になっている。
それに対して、池江さんは、「色々意見があることは知っているが、頑張るだけ、さらに選手個人にオリンピック辞退を訴えさせようというのは、選手として苦しい思いだ」という趣旨のTweet連投で応えたようである。
池江選手は電通の子会社所属であることから、電通主導のメッセージではないかと見られたりもしているようだ。ちなみに池江さんが白血病から復帰して、その活躍をテレビで取り上げられていたことも、オリンピック賛成へのPRの一環だとも見なされているようだ。やっぱり電通が裏で動いていると。
僕自身はジャーナリストではないので、電通のPR戦術の一環として、彼女が利用されているのかどうかは知りようがない。そういうこともあるだろうとは思うが、白血病から復帰して、東京オリンピック絶望と考えられていた池江さんが、このオリンピックに出場という物語はメディアにとって、最高のコンテンツである。
ゆえに池江さんの意志とは無関係に、池江さんはメディアやオリンピック政治に利用されるのである。その意味で、彼女は無垢のままではいられない。彼女を巡って、政治的意図や、あるいは政治的無意識が働くのである。
スポーツは社会の中でどのような存在なのか?
オリンピックは社会の中でどのような存在なのか?
オリンピックに出場するようなアスリートは社会の中でどのような存在なのか?
という問いに彼女もまた投げ込まれている。そこから逃れることはできないのだが、「いろいろあるけれど、オリンピックに向かって、頑張ります」との姿勢も、それらの問の中での彼女の応答である。だから彼女のTweetは政治的メッセージになっている。
彼女のメッセージはアスリートとしての純真さが表れていると見られるかもしれないが、その純真さが無知と背中合わせでもある。
欧米であれば、スポーツ推薦やスポーツ奨学生は、勉強にも励まなければならない。ある一定の水準での成績を獲得できなければ、大学にいることもできないほどだ。ところが、日本のスポーツ選手は、スポーツさえやっていればいいという環境になっている。そして、それを社会は許容してきた。だからスポーツ馬鹿と揶揄する者もいるのだろう。
「オリンピックを目指して、スポーツに専念できる事に感謝している」という考えは、社会から与えられた温情(パターナリズム)のただの受容である。それは社会に対する無政治性という政治的態度でさえある。
池江さんは、今回の「オリンピック開催か?辞退か?」という社会的に深刻な問題があるときに、自分自身がどのような存在としてあるのか客観的に観察する良い機会である。
色々な声がある事を知り、そのような考えと自身を重ね合わせ、その問題と自分という存在を考えてみればいいのである。
ちなみに白血病から復帰し、頑張っている若い女性を僕は知っている。彼女もまたサバイバーとして池江さんに共感するだろうが、さて、オリンピック開催に賛成するだろうか?