親鸞の『歎異抄』の一説。
善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく、悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや。
いわゆる悪人正機説である。どうも阿弥陀仏の本願は、悪人こそが救済の対象である程度に理解されているようだ。
しかしながら、そのような理解は正しくない。「善人」とは、いい人程度の意味ではなく、「私はいい人だ」と思い込んでいる人という意味である。
そして「悪人」は、悪い人程度の意味ではなく、「私は悪い人間だ」と思っている人という意味である。
阿弥陀様から見れば、それぞれの人間が行う善も、犯した悪も大した違いはないということだ。どんな小さな悪も見逃さない阿弥陀様からすれば、人間の善悪の違いなど取るに足りないというわけだ。
そこで自分のことを善人と思っているのは、単なるうぬぼれ。悪人と思っている、あるいは凡人に過ぎないと思っているのは、うぬぼれがないとの態度であるから、悪人の方が良い道にあるから、救われるというわけだ。これが悪人正機説。
僕は以前からソクラテスの無知の知に随分と近いんじゃないかと考えていた。ソクラテスの時代、自分が頭がいいと思っている知識人のところに行き話すると、それほど頭が良いわけではなく、うぬぼれだけが強い。今で言うと、プライドが高いだろうか。
ソクラテスは自分のことを無知だとは思うが、その無知を自覚しているので、無知を自覚しない知識人よりは少しばかり賢いかなと思う。だから、ソクラテスの方が良い道にあるから、真理に接近していると考えたわけだ。
今の時代も学校の成績がいいとか、知識があると思っているとか、エリートであるとか、いい会社に勤めているとか、うぬぼれている人は多い。
でも、阿弥陀様から見ても、真理から見ても、大したことはない。うぬぼれている場合じゃないってことでしょう。
そして、学校の成績がいいこと、知識があること、エリートであること、いい会社に勤めていることを、そのまま価値だと信じているのは、それらを獲得していると思えば、そのようなうぬぼれを強めていくことになる。
また学校の成績がいいこと、知識があること、エリートであること、いい会社に勤めていることを、そのまま価値だと思っているのに、自分はそれらを獲得できなかったと思えば、嫉妬が渦巻くことになる。これが悪人正機説でいう「善人」だ。
あれ、ニーチェの「善人」と同じじゃないか。