一昨日放送の日本テレビ「ヒューマングルメンタリー オモウマい店」を見て感じたことを。
今回は「とり天」発祥と言われている別府の名店である。もちろん料理もいいのだが、なんせ印象に残るのは、そこの駐車場で働くスタッフであった。
キレキレの動きで車を誘導したり、お客に気配りしたりなど、その人格に魅了された。料理人でもあるのだが、料理に関わりながらも、腰を悪くしたということで、この仕事なんだそうだ。駐車場の管理者というか、その誘導のキレキレぶりから何度もスカウトされたそうだが、この店で働いているという。
いわゆる名物警備員さんみたいな感じなんだろうが、特に印象に残ったのは、子供達に抱きつかれている場面だ。そういう日常なんだろうと想像させてくれる。
僕はこの人物を見て”妙好人”という言葉を思い出していた。
妙好人というのは、親鸞が真実の信心を抱いた人を讃えた言葉と言われている。だから宗教的な人格を実践する。あらゆる物事を受け入れ、そして阿弥陀の真実に生きる存在である。
僕は宗教人ではないけれど、妙好人という存在のありように真理があると考える。どんな人も「ようこそ ようこそ」と受け入れる、それは阿弥陀の御心なんだろうと。
「オモウマい店」のこの人物が、信心深いかどうかは知らない。しかしながら、日常生活それ自体がなんだか他者のためにあることを全く疑っていないのではないかと思いたくなるほどだ。ただただ善意が生きている。それは奇跡であるけれども、「ある」、そう信じるに値するような気がする。
妙好人については柳宗悦の妙好人の話が好きだ。
柳宗悦といえば『民藝史』。芸術なるものが高級文化にあるのではなく、民衆の生活に使われる道具に宿っていると喝破した。
我々平凡な人生の中にこそ、真理が宿る。あの駐車場で仕事をする中に阿弥陀の御心がある。そんな気がする。これは僕の信仰なんだろうな。