Drマサ非公認ブログ

注意することがそのまま正義ではない

 僕はなんだか他人(ヒト)を操作するようなことが嫌いだ。その理由は僕なりにあるのだけれども、人が他人(ヒト)を操作すること、それ自体が他者を尊重していないように考えるからだ。

 そういう道徳に関連して、僕たちは正義をもって他人(ヒト)に注意する。もちろん、この正義っていうやつは一杯食わせ者なので、心してかからなければならない。

 例えば、電車の優先席に若者がドンと座っている。ついでにスマホを見ていて、周りは見ていない。で、そこに80歳を過ぎたような老人が立っている。

 正義は思わず若者に向かって「席を代わりなさい」と言ってしまう。確かに正義だし、この若者のマナーの悪さ、不道徳は責められるに値する。しかしだ、人間てやつは、このような注意を受けると、自分が悪いとわかっていても、反感を持つことは必然である。

 その意味で、どんなに正当な注意もまた人を傷つける、そういう現実がある。だから最初に「操作するようなことが嫌い」というのは、このような現実がもたらせられることを僕は知っているからだ。

 とはいえ、僕は注意する。というのは、人間が言葉を発し、他者の行動を変化させるということには暴力性が組み込まれている。その暴力的であることを自覚して、自分もまた、その注意した他人と同様、暴力的である同等の人間であると認識するからだ。

 僕は人を傷つける覚悟を持つのである。そして、実は正義をもとに行動したとしても、同様に傷ついている。そのことに気づかされる。

 無神経なのは、実は正義を行使したとして、自慢する精神である。だから今風にいうと、マウントを取るという無神経さに気づかない社会になっていると、いつも思う。今だけではないか?

 少なくとも、注意するときは、自分が放漫であることを自覚して、丁寧に言葉を発するようにする。

 昔ギャル風の女子高生が電車内で席を占領していて、「どけ!」と言ってしまったことがあった。その自身の不躾さに戸惑い、反省したことがある。

 今なら、彼女たちにそんな言葉を吐くことはない。彼女たちが僕の言うことを受け入れるか否かは彼女たち次第。ただ丁寧にお願いするだけである。

 彼女たちに変化がなくとも、電車であれば、場の雰囲気が変化する。その変化が、道徳心に触れてい流結果であるとすれば、儲けものである。

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