西部邁『保守の真髄 老酔狂で語る文明に紊乱』(講談社2017年)を読んだ。
西部先生は2018年1月多摩川で自死された。本書は遺書と言っていいのだろう。著書はいくつも読んでいる。色々学ぶこともあったし、少し違うと感じることもあったが、ここでは印象的であったことを一部取り上げたい。
西部先生は人間という存在には不可避の事態が2種類あるという。1つはデステニイ(運命)、もう一方はフェイト(宿命)。
前者は運命が法則的必然であることを指し、後者は運命を回避しようと努力するも無効となってしまう不条理を含む。
「宿命にあっては努力が実を結ばなかったことについてのペーソス(悲哀)の感情が伴う。そうした悲哀の感情こそが人間の生涯や社会の時代を物語として構成する決定的な要素なのだと思われる」
西部先生はこのように言い、語り継ぐに値するのは「哀しみ」ではないかと提示する。
この宿命から、すぐに思い出したのが2つある。
1つは西田幾多郎の哲学に通底する「哀しみ」の感情である。誰だったか忘れたが、西田哲学は「哀しみの哲学」であると言うのである。
もう1つはビクトル・ユーゴーの小説『ああ無情』である。小学校4年生の時に読んでいる。主人公ジャン・ヴァルジャンのまさに宿命を描いた作品だ。僕の心に住み着いていると言っていい。その人間の「哀しみ」が。
西部先生はチェスタトンの「人生の最大限綱領は一人の良い女、一人の良い友、一冊の良い書物そして一個の良い思い出」と言う言葉を引用している。
今回西部先生の“遺書”を読んで、僕自身の「一冊の良い書物」を発見することができた。ちなみに『ああ無情』である。
感謝である。