Drマサ非公認ブログ

この政府ダメでしょ−統計不正問題

 安倍首相が厚労省の統計不正問題に関する野党の質問に「私は国家ですよ」と受け答えしたという。以前も「立法府の長」であると当然のように答えていたが、どういう国家観なのかと僕でも質問したいところである。

 まあ僕が質問したところで、相手にもしていただけないこと明白なので、下々の者はこんなブログで愚痴でも言うしかないかなと思う。そこで、少しばかり愚痴を短めにしたためたい。

 根本的なことのみ確認しておこう。

 近代国家はそれまでの国家と違い、法的な支配を柱とする。そこで要求される文化的な構造は合理主義である。合理主義ということは、効率性、計算可能性、予測可能性が重視される。

 雰囲気で何かをするとか、伝統的にやってきたから実施するとか、占いで決めるとか、あるいは独裁者の一存で決めるということを極力抑えた価値意識の中に近代社会は存立しているはずである。

 つまりは自然科学を模範として、政治や経済、あるいは広く僕たちの生活全般を科学的に捉え、人々の幸福を推進しようとする社会が僕たちの生きる近代社会の態度になる。

 だから、政治ということであれば、社会科学を利用して、そこに科学的態度を担保し、合理的な判断があるとする。もちろん、政治家がそういう合理的な判断を乗り越えることもあることはウェーバーの指摘する通りである。

 政治は国民の幸福を推進しなければならない。そこで科学的、合理的に現実の社会を理解しなければならない。もちろん、人々の生活実感というのも大切である。ただこれは客観的とは言えない。そこで必要になる情報が統計的手法を活用した国民生活の実態を把握することである。

 官僚の仕事は情報を集約し、現実の国民生活の実態を捉えることにある。だからこそ、官僚の世界はあらゆる情報が集約されているし、ゆえに権力にもなる。そこで、彼ら官僚は正確な統計資料を作り上げなければならない。近代的制度化での政府の最初の役割である。

 そうしなければ、国民生活の実態がわからないわけであるから、右寄りであろうが、左寄りであろうが、政策を作り出す柱を失ってしまう。なぜなら、この実態を把握してはじめて、ある政策を実施した場合、未来への予測が可能になるからだ。その予測の結果が国民の幸福に資するとなれば、その政策の意義をやっと主張できるわけだ。

 そもそも国民生活の実態が不明であるという事実は、どのような政策もその根拠を持つことがない。統計不正問題とはこういう根本的な問題である。それでも、その政策を実施するということは、目隠しして前に進むようなことである。

 まあ、日本にはこのような合理主義自体が根付いていないのだろうな?とは思うけれども、国民もそれほど気にしていないんだろうな?政府も人々が忘れるのを待って、はぐらかしたり、強弁したりして、政府が問題ないかのようなPRをし続けるんだろう。

 まあ僕のような者が言っても何にもなりはしないが、近代国家の政府としては合格点はあげられないと思いますよ。

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