インターネットやSNSは共同性を作るわけではない。あくまで共同性のきっかけとなることがあるという程度のものである。一応この考えは、僕の見方に過ぎないが、共同性には共同性をもつ社会に産み落とされてきた歴史性や、コミュニケーションを重ね合わせる中で作り上げる歴史性が必要と考えるからである。
バイトテロはSNSにおいてなされるし、また発見される。SNSは共同性というより、システムである。システムであるがゆえに人間の意思とは別に自律運動している。それは人間がコントロール可能なのではなく、人間の方がそのシステムに内包され、翻弄される。翻弄されるが、効率性であるとか快適であるとかいった感覚を私たちにもたらす。そこに耽溺の道が用意されている。
パノプティコンもまたシステムである。そのため、勝手に監視が作動する。人間はそのシステムに内包される。人間のコントロールを超えているわけだ。このようなシステムの中にいる人間同士は結局のところ共同性を後退させたところでの人間関係に巻き込まれる。
繰り返すが社会が共同性や仲間といった意味を持つわけだから、システムはそういう意味とは別の意味を担う。パノプティコンでは一方的な「見るー見られる」という関係であり、それを内面化する。つまり、仲間ではない。ということは敵であるとか、無関心であるとか、功利主義的な(損得)関係でしかない。
このような構造下において、バイトテロ映像が流通する。SNSというシステムを媒介するので、共同性ではない関係性から観察される。今回はinstagramのストーリーズという1週間程度で映像削除されるシステムが使われていたようだから、この1週間という期間において、仲間内で楽しむとい程度の共同性の意識が見出される。
ただよく指摘される通り、インターネットは拡散性を特徴とする。結果、ストーリーズを使ったところで仲間内の外に拡散することを必然とする。そこで待ち構えているのは、敵、無関心、功利主義的な世界観である。よって、バッシングおよび炎上が待ち構えており、そこから社会的法的制裁という流れが用意されている。
個人とシステムの間にある共同性、中間集団がないわけである。そこでは、社会的正義を適応できる者たちが待ち構えている。それが敵、無関心、功利主義的な世界観を抱えている者たちであるが、同時に社会的正義を適応できるため、自分たちの正しさを疑う必要もない。彼ら若く未熟な者を法的制裁をすることを当然と考える。「厳罰だ」と主張する。どうしてか、繰り返すが、中間集団ではないからだ。
彼ら若く未熟な者を諭し、反省させ、社会の中に包摂する力こそ必要なのではないだろうか。このようなひと昔でいえば「悪ふざけ」を行った若者ともうまくやっていく自発的な共同性は遠い過去なのだろうか。