タレントのryuchell(りゅうちぇる)さんの死亡に際して、思ったことを少しばかり。
1タレントさんですから、そんな詳しくは知りません。そこであくまで社会現象として、どんなことが背景としてあるのかということを想像してみます。関連記事を見てみると、「自分らしく」という言葉がキーワードとして頻出するという印象。
こんな記事。
「自分らしく」って何だろう。現実の自分は当然存在している。その自分は悩みや苦しみを抱えて生きている。そして、この日本社会は悩みや苦しみを抱えやすい社会である。あまり意識されないが、そもそも人間の実存には悩みや苦しみは必然である。
悩む力があることこそ、人間の生きる力であり、社会的存在である人間が生きる意味を見出す源である。そこに気づくこと。あえて気づかないことにして生きているのが私たち。ハイデガーなら頽落。そこを意識して、自ら認めること。これが勇気である。勇気という存在は、無意識的に押し殺している実存的感情を認めることである。
どうも頽落した人間は、そこを素通りしてしまう。しょうがないといえば、しょうがない気がするのだが、しょうがないけれど、やっぱりしょうがなくない。そういう矛盾した認識になってしまう。でも、それが当たり前。常識。そこを飛躍する力として、勇気。なんせ無意識は自然であるが、そんなこと普段想像もしない。
近代人が悩むのは自我であるが、その現象の一形態として「自分らしく」。そもそも、この「自分らしく」は今現在の自分(自我って言っていいのか微妙な気はするが)ではなく、「自分らしく」という今現在の自分ではない自分を設定している。だから、これは理想像。
別に理想を描くなというわけではない。ただ現実にある自分を「自分らしく」という理想像から観察して、今現在ある自分を肯定できない、否定する、あるいは嫌いである、あるいは社会がおかしいという心理を抱えていることになる。これ近代の病である。まあ社会はおかしいのだけれど。
自分は自分として確実であり、自分の身体を持って、自分の意識を持ってるという信憑。これを本質としているが、あくまで現象である。だから勘違い。だから「自分らしい」ということに拘るのは、現象である。
以前にもこのブログのどこかで書いたことがあるが、近代とはmodern、元はmodel。人間の生き方にまでmodel(理想像)を設定して、それに近ずくのが正しいとする。これが近代の忘却されている、無意識的な政治的欲望。そして、社会とは政治的無意識を広げるという一面を持つ。
そんな隘路に生きる近代人。そういうことをまたもや頭に駆け巡った。
ご冥福を祈ります。合掌・・