Drマサ非公認ブログ

りゅうちぇるさん亡くなる、思ったこと

 タレントのryuchell(りゅうちぇる)さんの死亡に際して、思ったことを少しばかり。

 1タレントさんですから、そんな詳しくは知りません。そこであくまで社会現象として、どんなことが背景としてあるのかということを想像してみます。関連記事を見てみると、「自分らしく」という言葉がキーワードとして頻出するという印象。

 こんな記事。

 

りゅうちぇるさん「自分らしく」発信 大切にした個性と多様性 多くの人を勇気づける

 12日に亡くなった県出身タレントのryuchell(りゅうちぇる)さんは、「自分らしく生きること」を積極的に発信した。多様性や個性を尊重する生き方は多くの人に影響を与えた...

琉球新報デジタル

 

 「自分らしく」って何だろう。現実の自分は当然存在している。その自分は悩みや苦しみを抱えて生きている。そして、この日本社会は悩みや苦しみを抱えやすい社会である。あまり意識されないが、そもそも人間の実存には悩みや苦しみは必然である。

 悩む力があることこそ、人間の生きる力であり、社会的存在である人間が生きる意味を見出す源である。そこに気づくこと。あえて気づかないことにして生きているのが私たち。ハイデガーなら頽落。そこを意識して、自ら認めること。これが勇気である。勇気という存在は、無意識的に押し殺している実存的感情を認めることである。

 どうも頽落した人間は、そこを素通りしてしまう。しょうがないといえば、しょうがない気がするのだが、しょうがないけれど、やっぱりしょうがなくない。そういう矛盾した認識になってしまう。でも、それが当たり前。常識。そこを飛躍する力として、勇気。なんせ無意識は自然であるが、そんなこと普段想像もしない。

 近代人が悩むのは自我であるが、その現象の一形態として「自分らしく」。そもそも、この「自分らしく」は今現在の自分(自我って言っていいのか微妙な気はするが)ではなく、「自分らしく」という今現在の自分ではない自分を設定している。だから、これは理想像。

 別に理想を描くなというわけではない。ただ現実にある自分を「自分らしく」という理想像から観察して、今現在ある自分を肯定できない、否定する、あるいは嫌いである、あるいは社会がおかしいという心理を抱えていることになる。これ近代の病である。まあ社会はおかしいのだけれど。

 自分は自分として確実であり、自分の身体を持って、自分の意識を持ってるという信憑。これを本質としているが、あくまで現象である。だから勘違い。だから「自分らしい」ということに拘るのは、現象である。

 以前にもこのブログのどこかで書いたことがあるが、近代とはmodern、元はmodel。人間の生き方にまでmodel(理想像)を設定して、それに近ずくのが正しいとする。これが近代の忘却されている、無意識的な政治的欲望。そして、社会とは政治的無意識を広げるという一面を持つ。

 そんな隘路に生きる近代人。そういうことをまたもや頭に駆け巡った。

 ご冥福を祈ります。合掌・・

コメント一覧

syokunin-2008
大昔の新聞に「首無し美女の死体」との記事があったらしいが、首が無いのに何故美女だと分かったのかとの落語のツッコミ

今回の場合は「自死」とあるだけで死因が不明。遺書が無いのに何故自殺と分かったのか実に不可解。
沖縄出身で本人も地上戦にも関心を示し、父親が米兵なのでハーフ。しかも前日には自分の息子の5歳の誕生日を母親と共に祝っていたというのですから???普通なら必ず有るはずの情報の欠落が多すぎるのが不気味である
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