りゅうちぇるさんが亡くなって、不可解なこともあるなあと思っていました。今マスメディアが自殺と思われる事例に関しては、センセーショナルな、目立つ報道をしないとの厚労省の通達もあるので、実質自粛傾向にあるかのように思います。
そのためか、マスメディアはその原因については突っ込んで報道するようなことはないようです。不気味な感じもしますが。
さて、僕なりの印象になってしまいますが、感じたことについて。簡単です。アイデンティティ・クライシス。
彼の出自は沖縄。そして夢を抱いて東京、しかも若者文化の中心の原宿で、読者モデル。そしてタレントとして注目を浴びる。純粋さと上昇志向と。しかしながら、彼の出自が持つ複雑さ。
結婚、子供、離婚。しかしながら新しい家族像。そこにジェンダーの問題の意識化。最近の彼をみると、沖縄出身としての対差別意識、そして化粧をしてブラジャーをして女性化。ここに政治的姿勢も作られる。やはり対差別意識。
そこで生み出された「自分らしく」への志向性の強さ。何がアイデンティティなのか、簡単に信じられる主体性が見出せず、悩む中での「自分らしく」という空虚なものへの志向性。それでは人生の意味を見つけられないのではないか、そんな気がしてしまう。
ジェンダーについて取り上げてみるならば、性という水準でのアイデンティティ。大雑把に議論してしまうけれど、今流行のLGBTQの問題。Qはクイアあるいはクエスチョニング(Questioning)。クイアはジュディス・バトラーあたりが有効な視座を与えた概念で、ゲイやレズビアンの運動が異性愛者のとの分離を避けようとした戦略的概念。
クエスチョニング(Questioning)の方が、僕は不安定な性を持つものへのストレートな概念という感じがしている。性的志向を決定できない不安定さ、それを生きる人たち。僕はりゅうちぇるさんがまさにクエスチョニング(Questioning)であったのではないか、そう感じてしまう。もちろん彼のことを知らないし、彼の発言をおさえているってほどではないのだが。
彼が離婚をして、新しい家族像を求め、そして自身を女性化していったこと。そして社会がLGBTQへの理解を当然とするような動きであること。LGBTQを当然とする思想に短絡的に繋がってしまうこと。つまり性急すぎる性的アイデンティティの決定。そもそも人間の性はまさに人間のありよう。
それはクエスチョニング(Questioning)な者にとって、簡単に決定することができず、時間をかけて作り上げることなのではないか。もちろん差別はいらない。しかしながら、自己の性を自身が決定できるとする「性自認」は他者との関係、時間的な経過といった中で紡ぎ出されるもの。流行ではない。
だから若さが性急さを生み、アイデンティティ・クラシスの只中で、それを和らげる仲間がいなかったのではないか、そんな気がする。そうだとしても、彼の性のありようを理解する人間は少ない。加えて、彼自身が性自認を正義と信じてしまうし。ただ苦しみは受容できる。だから周りに苦しみを共有できる人があればなあとも思う。
繰り返しだが、ご冥福を祈る。合掌・・・