最近頓(とみ)に思うのだが、お金に対する感覚の変容である。
若い人が当たり前のように「お金が欲しい」と言ったり、「稼がないといけない」と言ったりする。普通に聞いていれば、なんということもないように右耳から左耳に流れて行くだけなのだろうが、なんだか違和感を感じていた。
それが僕の中で明確になったのは、テレビのある場面であった。小さな子供が「お金が欲しい」と当然のことのようにしゃべっている場面である。子供が何か物を欲しいと言わず、お金が欲しいという、この変化である。
欲望の対象が具体的なものから抽象的な金に変化しているわけだ。ということはお金の抽象性が欠落していき、具体として現れているのであろう。欲求ではなく、欲望を叶える手段としてのお金に直接繋がってしまっている、そんな感じがするのだ。
例えば、宇宙飛行士になりたい、ケーキ屋さんになりたい、というのは理解できる。しかしながら、お金持ちになりたいとあからさまに言うようになってきた。一体何になりたいのか?実は何にもなりたいとは思っていないということである。なぜならお金持ちは職業ではないし。
かつてお金持ちといえば、西欧では当然貴族。貴族はお金持ちであることを引き受けることで、戦争があれば命を懸ける、戦争がない時であれば、地域社会の、つまりは公共のための責任を負い、インフラ整備する、などの役割を背負った。これが貴族の矜持。
そういえば、今思い出したんだけれど、30年も前になるが、後輩の1人が「人生の目標は年収1000万です」と喋ってて、違和感を持ったことがあった。仕事頑張ったので、その結果年収1000万円になったということであって、目標として設定するなんて、しかも人生の目標って・・・・で、「人生って何なんだろう」と哲学的問いを思い出したことがあった。
おそらく、これが拝金主義である。しかし、ここで持ち出してきた話は通常拝金主義とは思われないだろう。しかしながら、欲望が直接お金につながってしまっているということで、拝金主義。もうすでにデフォルトになっているので、拝金主義のそれとさえ気づかれない。
デフォルトであるがゆえに、大衆的理解に依拠しているがゆえに、誤った理解と一蹴されるに違いない。「それあなたの感想でしょ」って感じで。
人生の勝ち負けがお金を基準にして、勝ち組、負け組。この基準の枠組みで行動し、この枠組みを適応してのみ世界を、他者を位置付ける。その基準に対する疑いが希薄になっている。だから、子供がお金を欲しいと言うのである。
子供が夢ではなく、欲望を語る社会。まあ僕は負け組でいいや。諦めているのでしょうね(笑)