以前動物愛護の運動家と知り合ったことがある。いい人だ。そのためよく彼女から、動物虐待反対とか殺処分反対との趣旨のメールが来る。今日久々「こんにちは」などとメールが来たので思い出した。
ちなみに殺処分はガスでの窒息死や毒殺など酷い方法が使われている。飼えなくなったペットなどが多いらしい。虐待の方は、放し飼いにしなければならないなどが含まれたりする。
人間の都合で酷い目にあう動物やペット。人間がそういう状況を作ったのだから、基本的には賛同するが、それでも人間の都合に過ぎないとも思うので、たいした乗れないでいる。
狩猟時代、人間もまた食物連鎖に組み込まれていた。だから、人間より弱い動物を屠り、反対に動物たちも人間を殺して食べるということもあった。僕はブッタの前世である人物が自分の身を捨てて、虎に喰わせたという話を思い出す。動物のために自らの命を捨てる功徳ということのようだ。ブッタ以降の創作ではないかと思ったりするが、よく知らない。
農耕時代、自ら農作物を作るようになるため、食物連鎖から抜け出すことに成功する。多分そこで意識が変わったと思う。人間が動物に食われることは自然なことではなくなった。他の動植物と違い、人間だけが特別な存在になり、彼らを支配する側になったのだ。
これが人間中心主義の根本である。狩猟と農耕が文明を変革し、人々の意識をも変革した。
さて宗教学者の山折哲雄だったと思うが、人間が動物との共生を訴えたところで、どこまで行っても人間中心主義から脱していないと述べていた(なんの著作で主張していたのか忘れてしまったので、そこはご容赦を)。
動物たちとの共生、あるいは自然環境との共生もまた、あくまで人間中心主義という人間にとって都合のいい考え方がベースになっている。例えば、捕鯨反対も鯨が哺乳類で頭が良い動物であり、人間に近い存在であるからということであれば、当然そこに人間中心主義が紛れ込んでいる。人間中心のエゴでしかないとすれば、乗り越えるべきはこのエゴである。
だから共生は現代社会での重要なキーワードになるけれども、「動物と」となると、少し僕は乗れないでいる。そもそも日本には、人間中心という思想は脆弱であったではないか。八百万の神であるから、森羅万象に神を見る日本人にとって、動植物との共生は当たり前の事実である。だから、「何を今更」という思いが生じる。神々は我々人間に良いことも悪いことも与える。それら神々と共に住まうのが人間であるという事実に立脚すれば、それで事足りるのである。
西洋産の共生概念にはねじれがある。共生している現実から、人間を現実の外部に連れ去り、もう一度共生を主張したとしても、どこまで行っても人間中心。最近の日本もそうなってしまったが、歴史の古層に日本的共生があるのではないかと、微かな希望を持っている。
動物愛護の運動家に、こんなことを話したことがあるけど、理解されなかったなあ。ペットに可愛い服を着せるのは、人間中心主義ではないかと言ったら、「信じられない」という反応だったっけ。それでも今回メールが来て、嬉しかったよ。
こういう点で、僕自身は日本の心を有しているような気がしている。