近代以前から広告やPRは存在するが、マス・メディア時代以降になり、顕著になったのは、商業広告の広がりである。
商業広告であるということは、消費者に商品を購買させたいし、良いイメージを与えたいということになる。これらが我々の生活に与えている影響は、言わずもがなだが、非常に大きい。
当然のことだが、商業広告とはその意味でPR(パブリック・リレーション)であり、商品と企業らが関係性を持つために力を持つ、そういう意味である。20世紀前半のマス・コミュニケーション研究を振り返ると、マス・メディアの影響というよりも効果を問うという方向であったように思う。
だからPRする側が消費者の消費行動を操作しようという意図が先にあった、そういうことだと思う。これは当然大衆操作という方向性になるが、極北に行くと、ナチスのプロパガンダになったわけである。
もちろん極北ではないにしても、多かれ少なかれマス・メディアは人々をある一定方向に向かわせる技術として発展したという側面は強い。それは日常生活にあふれている広告であっても、意識的、あるいはこのような大衆操作を当然とすることにおいて無意識的になったとしても同様である。
だからもっぱら広告やPR活動とは、広告主の利益のために行われ、消費者のためではない。何かメディアを利用して、メッセージを発するということは、そのメッセージで人々に影響を与えることが目的である。
そして、消費者のためにあるというイメージを作り出すことによって、多くの人(つまり大衆)が、消費者のためにあるというイメージ構築に向かうのである。アリバイにすぎないのに、ネタがベタになってしまい、アリバイであることさえ忘却される。
ちょうどジャニーズの話が出ているので、ちょっと利用させてもらう。この芸能事務所が芸能商品の1つのひな型を作り出し、「夢と希望」なる現代的なメッセージを提供するかのようなイメージをPRし続けてきた。やっぱりこれはアリバイである。
実はこの芸能事務所もそのファンたちも信じているのである。実は彼らが提供しえない芸能のあり方もあったはずだ。その意味で、日本の芸能の可能性や多様性を損なったとさえ言える。だから他の「夢と希望」を抑圧したのである。
だからこの商品は、いつもメディアに出ていたわけだから、いつもPR活動を行い、意識的か無意識的かを問わず大衆操作してきたのである。マス・メディアはそもそもそれにのっかてしまえば、利益を上げられるということだが、他のエンターテイメントの可能性を抑圧し続けてきたことにもなる。
先日の記者会見でもまたPRあるいは大衆操作する場所であると(意識的あるいは無意識的に)していたのだが、そこにジャーナリズム精神が待ち構えていたので、失敗してしまった、そういうことなんだろうと思う。まあNGリストに入っていた6人は偉かったわけだ。
そして、このPRおよび宣伝こそマス・メディアの本質である。操作しようとすることが本質である。
もちろん、それでいいわけがないのだから、政治なども同様の構造で、他でもあり得た可能性や多様性を抑圧しているのではないかと考えるべきだ。