日本学術会議については、詳しくは知らない。研究者の間でもその程度ではあるだろう。
今回の政府による任命拒否について、学問の自由が侵されるとの批判がなされている。まあとっくに侵されているでしょうに。予算出す出さないとか、文科省の意向を汲まなければならないという雰囲気はあるし、天下りも多い。天下ってきた職員の強いこと、強いこと。
さて、そもそも学問の自由とは何か。
学問で見出された知見は人々の福祉に貢献する。福祉というのは幸福、英語で言うところのwelfare、well-beingである。
そこで自由とは何かといえば、近代社会では国家からの自由である。学問を国家統制してはいけないというのは、近代国家がリヴァイアサンにでもなってしまっては、本来の主権者である国民の生活が脅かされる可能性があるからだ。
そこで学問の自由には2つの水準を見出すことができる。民間での活動。これは政府にとやかく言われる筋合いはない。わかりやすい。
次に政府機関としての活動。政府機関であっても、国家/政府が学問に口出ししてはいけないというのが、ここでの学問の自由だ。国もまた国民のwelfare、well-beingに資する活動をする。そこで、まさにwelfare、well-beingに資する学問に協力することになる。ただ学問の自由は前提なのである。ただ欧米では国家の学問への介入を危惧して、国家からの支出は避けようとする傾向がある。というよりは自治機関としての性格が強い。
よって政府からの統制を受けてはならない。税金投入しようがしまいが、政府が統制、干渉してはならない。ゆえに形式的任命な訳だ。中曽根さんの頃に確認しているわけだから、あの中曽根さんでも理解していたことだ。
なんか国から金が出ていると、どうも政府が意見をしてもいいような気がするが、それは学問の自由を侵害する。こういうポピュリズム的理解は怖い。おそらく事務の人間が必要なので、そういう諸経費が中心だろう。繰り返す。ゆえに形式的任命だ。
ところで日本学術会議については、僕は詳しく知らないとした。多分、硬直した組織なのだろう。それに手をつけるべきは日本学術会議の会員であって、政府ではない。なぜなら、それが学問の自由からも見出しうる自治だ。
学者から声明程度は出ているが、戦う姿勢は感じられない。多分名誉職程度の意識なのではないかとも思う。そして、学術の世界もまた日本の他の(世)界と同様、自治意識が醸成されていない。独立の気風に欠けており、支配構造に組み込まれるのは必然だ。
英国科学誌『ネイチャー』が「国が学問の独立性を尊重するという原則は、現代の研究を支える基盤の一つ。政治家がこの約束を破れば、人々の健康や環境、社会を危険にさらす」と日本政府を批判している。
どうして「人々の健康や環境、社会を危険にさらす」のかというと、政府主導でのみ研究がなされれば、国民が置き去りにされる可能性が強まるからだ。安倍さんより、菅さんの方が怖い気がしてきた。