では、木村さんのコミュニケーションについても考えてみよう。
木村さんもまたネットの言説を真に受けすぎたのだと思われる。SNSの言説は当然そのまま必ずしも受け入れねばならないかというと、そんなわけはない。言葉をそのまま受け入れる、換言すると受容すればいいかというと、人間のコミュニケーションが持つ複雑性からすれば、言葉が持つその意味をその言葉それ自体として受容することが正しいわけではない。
前回の人間コミュニケ—ションのコンテクストの複雑性に当然関わるのだが、ここでは違う角度で考えてみよう。
最近イデオロギー化している心理学の技法がある。傾聴に基づく共感である。「傷ついた他者」が投げかけた言葉に対してどのような態度が正しいかというと、相手の言葉やその内容に対して、自分なりの意見を言ったり、励ましたり、分析するのではなく、言葉を受け止めてもらったという実感を作り出すことが良いとされる。通俗化すると、「どんな男性が好きなの?」と女性に聞くと、「話を聞いてくれる人(男性)」というパターンになる(繰り返すが、あくまで通俗化している)。
言葉を受け止めてもらったという実感は、その人物自体を受け取ってもらったという実存の肯定に結びつく。これはこれでいいのだが、当然いろいろな条件のもと成立するのである。例えば、先に「傷ついた他者」としているが、すでに実存的危機にあるような場合である。この手法はケアの場面、特にケアを職業とする人々に教育として行われている。
一見良い行いのように見えるが、「傷ついた他者」でもない人物にこのような手法で接することはおかしい。そもそもあえて技法としてやるのだから、これがコンテクストとなるため、作為的であって本当は受容していないことになる。さらに、このような技法を常に心掛ければ、大変の心理的負担である。などなど、あげられるだろう。ゆえに条件付きなのであり、必ず絶対正しい方法を事前に決定することなどできはしないのだ。
そこで木村さんに関して考えてみると、SNSのコメントに対して傾聴に基づく共感をしているとは言えないが、コメントをそのまま受容してしまっていることは想像できる。それを真に受けすぎだと指摘できる。
コメントの言葉をそのまま受容してしまうと、その言葉自体が発せられるコンテクストを考慮することなしに、その言葉自体の意味を受け止めてしまう。ネットで「お前はバカだ」と言われても、このコメントをしていた人物がどういう人物か想定できれば、「バカ」は「ふざけてるだけかあ」とか、「バカっていうお前の方がバカだろう」と相対化できる。
コミュニケーションにおいては相手の言葉をズラしたり、かわしたりすることがあるものだ。実際そのまま真に受けることの方が少ないのだ。先ほどの傾聴に基づく共感でもそうなのだが、相手の受容は「私」の許容量を越えることがある。それが続けば、当然相手より「私」が壊れることもある。
こういう時に必要とされるのが、自己へ配慮である。やさしい人ほど、他者への気遣いに終始してしまい、自己への配慮を忘れる。ちなみに自己への配慮はM・フーコーが取り上げた概念である。
木村さんは「誰よりもやさしい人であった」という。父親の克也さんは「弱者に対して、傷ついた人にすぐ気づいてケアする目は持っていて、気遣い、優しさというのが見ていればわかる選手だった」と振り返る。
前回誹謗中傷した者たちの分析をした。木村さんにも同様のSNSにおけるコンテクスト理解の不足、そこにエコーチェンバーによる受容の一元化が強化される機制があったと思う。そしてやさしさが言葉を真に受けさせたということはなかったろうか。そして、自己への配慮ではなく、自己への非難に向かってしまったのだ。
(つづく あと1回)