弟からメール。母親の状況についてである。
弟によれば、ボケが始まっているという。介護認定も出た。2である。弟の連れ合いは看護師であるが、彼女の見立てでは3でもいいのではないかと。
母は北海道、僕は東京。直接どのような状況か見ることもできない。なんだか心配が募るだけである。ただ弟がケアに当たってくれているし、もう一人の下の弟も協力できるようで、そこは安心材料である。
弟たちからメールで母親の写真が送られてくる。確かに表情がないというか、見たこともない焦点が合わないような表情である。
仕事が忙しく、弟たちのケアがあるので、僕自身は北海道に帰らないでいる。「何もできない」自身に無力さを感じてしまう。
ボケが進み始めたというが、明らかにコロナで外出せず人と会うこともなかったことが影響している。人と話をすると表情が出てくるというから、コロナがコミュニケーションに問題を起こすことを痛感する。
医者によると、3月からの短期間で、これほどボケが進行するのは珍しいとの診断らしい。弟もレスバイト入院で今後どうするか考えたいとも言っている。遠くにいるため、僕自身は何の意見もいえない。本当に無力であるが、自身を無力であるなどと思うこと自体が、自己中心的でもあり、そういう葛藤さえ生じる。
変な話だが、母親のケアができる弟たちをなんだか羨ましいとさえ感じてしまう。母に対する思いを具体的行動、つまりはケアすることさえできない自分と、母の状況に巻き込まれながらケアできる弟たちとの間になんだか溝があるように感じてしまうからだ。
オムツをむしったりするらしい。介護で生じる定番の問題だ。その対応を弟らは実践している。僕はできない。
母の元気な頃の姿がいつも頭に浮かび、現在との違いを頭の中で反芻しているだけである。