Drマサ非公認ブログ

ドラマ相棒とパラダイムの保守性

 今日テレビを点けていたら、パラダイムの保守性が扱われていた。別にパラダイムの保守性を扱おうとしたわけではないのだろうが、結果的にそうなったのであろう。

 以前当ブログで「コロナとパラダイムの保守性」と題して、扱ったことがある。

https://blog.goo.ne.jp/meix1012/e/780016461b4e9a8f502b07474e51538a

 

 グレゴリーベイトソンが指摘した人間の数字への耽溺傾向のことである。

 テレビは相棒。再放送だ。ただテレビを点けていたわけではないので、内容はきちんと理解していない。企業が隠れて兵器を作っているが、そのあおりを食って海外ボランティアが3人亡くなっている。そんな内容だ。

 ドラマの構造は複雑なのだが、最後の場面で反町隆史演じる冠城刑事がその企業の社長に犠牲になったボランティアのことを聞く場面がある。

 その社長「ああ。あの3人か」

 冠城刑事「3人ではない。XXXX、YYYY、ZZZZだ。名前を覚えておけ」

 

 とこんな感じだった。正確なセリフは流石に覚えていないので、ご容赦願いたい。もちろんXXXX以下は固有名である。人の命を数字で捉えると「3人」でしかない。しかし、それぞれにかけがえのない固有の生命があったのである。こういう時、名前は固有の命を指し示す。

 こう書けば、パラダイムの保守性などという分かりづらい概念を使う必要がないと思う。我々は固有の生命が固有の生命であるとして、ただそれだけで価値を持っていると知っている。冠城刑事はそういう地点に存在して、「内なる声」を発話するのだ。

 しかしながら、固有の生命を数字で扱った瞬間、この場面では「3人」とした瞬間、固有の生命の意味が後退するのである。それが社長の言葉と態度である。社長はそういう見方を、現実を知る力を失ったのである。人間は数字を客観的事実と考えているし、科学に関しては数字はそういう事実を表しているということになっている。

 違う。それは真に事実ではない。なぜなら数字は人間の固有の生命が有する意味、価値を表現しないからだ。ベイトソンはそのような認識が陥る錯誤を明らかにしたのである。数字ではなく、その現象から事実を見なければならない。

 今コロナ禍にある。新規感染者数2970人、現在感染者総数24981人、累計感染者数172448人、死亡者数2512人・・・・、医療関係者の努力、医療体制の崩壊危機(ベッド数)など。この一人一人に固有名があり、彼女/彼らに関わる人々の人生もそこにある。そこを想像して、考えて見なければ、事実を知ることはできない。

 「コロナは大したことない」との意見があるようだが、数字ではなく、固有名の意味や価値を見るべきだ。インフルエンザで死ぬ人は年に3000人程度だから「コロナは大したことない」という意見を見たことがある。すでに死者数は並び始めているけれど、新しいウィルスが原因で、その分死ぬ人が増えたのである。インフルエンザと比較すべきことではない。それこそパライムの保守性。コロナの分、他の死亡者が減ったとしよう。トレードオフすることでもない。

 自衛隊が医療の現場に入った。大災害と同じような状況になったということである。つまりコロナは大災害である。まさか自衛隊投入して、やってる感をPRしようというわけでもないことを願っている。

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