新しい仕事に入っていて、ブログはほったらかしだったけど。
2人の考えをとりあえず例にあげて見よう。そして国家について感じたことを。
@池田清彦さんのTwitter
https://twitter.com/IkedaKiyohiko/status/1297907245305348097
「国家も会社も実在しない概念に過ぎない。実在するのは国民とか社員とかといった名前が付いている個人だけだ。概念は所詮道具に過ぎない。道具のために命を懸けるのは倒錯である。」
@西部邁さんの『保守の真髄』(講談社2017)から
シチズン(市民)が、「国家から保護してもらうことの引き換えで国家への義務を引き受ける人々」を意味する、ということをすら忘れている。
西部さんの見方は、文化を含む文明は公共的なつながりを持つ。そうでなければ文明ではないし、文化は存在しない。この公共性を人々が根底において共有する。この公共性の総体として国民があり、国家があるというのである。
池田さんの見方と西部さんの見方は正反対である。前者がリベラル、後者が保守。前者では国家は想像。後者では国家は実在と見える。
僕の見方はこうだ。国家は想像の産物。しかしながら、一旦実在性を持てば、それは人間の生き方に根ざす文化を持つ。ゆえにその文化は国家として現れている。だから国家は人々の根底である。
ベネジクト・アンダーソンの「想像の共同体」を持ち出せば、これは近代に限定されるけれど、国家・国民・民族は想像の産物である。こんな社会学を持ち出さなくとも、国は人の頭の中にあるのであって、この現実のどこにも存在していない。制度的に組み上げられ実在している振りをしているだけである。その意味で池田先生の言う通りだ。
普通、存在していないのに存在しているとしていると、勘違いということになる。しかしながら、国家はあるとして、日本はあるとして、人々は生きている。あるいは生きていることになっている。これはバーチャルな存在なのであるが、それに則って生きて行くことになっているわけだ。
そこで、2つの態度があり得る。「どうせバーチャルなんだから」という態度。もう一方は、「バーチャルだけど」という態度。
で、池田さんは道具としてうまく利用すればいい。西部さんは人々を支えてきた道具だから大切にしなければならない。
で、僕はバーチャルなら、バーチャルとして自覚してやって行けばいいのかなあという感じだ。バーチャルに命をかけたり、戦争してしまうのは、バーチャルをバーチャルとはみなしていない証拠になるので、愚行になるだろう。
もう少し西部さんを勉強してみるかと思っている。