ジャニー喜多川の性加害の問題で、やっと櫻井翔が自分が出演する報道番組でコメントを出した。で、僕は「やっぱりタレントさんだなあ」と。というのは、自分が与えられた役柄を演じることに終始するというか、役柄自体をアイデンティティにしているのだと思ったからだ。
一応記事を貼って、それについて、意見を述べてみる。
僕がこの記事で最初に違和感を抱いたのは「今もまだどの立場でどうお話できるのか難しいのですが」という言葉である。
なぜ立場でモノを言う必要があるのだろうか。あなた自身が感じたこと、思うこと、考えることを言えばいいだけであるが、「立場」なる社会的位置が優先されていること。「立場」を優先することで、個人が後退して、「立場」というなんだか掴みづらい位置に自らを設定していることだ。
そして、「かつて同じジャニーズJrとして時間を共にしてきた大切な仲間の中には」と「仲間」を気遣うように言説を立ち上げ、「仲間」に被害が拡大しないようにとも言う。でも、これ風評被害を拡大しないでというロジックと同一である。
今問題になっているのは、風評被害ではなく、現実の性暴力の問題であるから、そこに切り込み、その問題を日本人全体で共有することが求められることだろう。ところが、風評被害のようであれば、触れることもいけないという話に繋がってしまい、あたかも隠蔽に加担することになる。
ビートたけしが「ようやく声を上げる時代がきた」と真っ当な見解を述べているが、櫻井翔の言説では、「声を上げないで」となってしまう。ここで当然アウティングの問題があることを前提とするなら、必要なケアは「声を上げても大丈夫。僕(櫻井翔、仲間でもいい)が支えます。」ということだろう。
もっと色々あるのだが、櫻井翔が「エンタメを通じてたくさんの夢を見せてきてくれたジャニーズだからこそ、ファンや私たちが迷いなく夢を見続けられるようにしてほしい」と「夢」なるキラーワードを使い共感を呼ぼうとするが、この問題はエンターテイメントの裏側の夢ではない「現実」を見よ!という問題でしょう。
彼のニュース番組でのコメントが彼の言葉ではなく、周りに練られた言葉であるというツッコミもある。僕もそうなんだと思う。これは憶測ですよ。でもこの記事全体から、櫻井翔の言葉に日本的な優等生を見てしまう。
もっとあるけれど、最後に「性被害は絶対許さない」と言っているが「性加害」と言わないところが、加害者の存在を見て見ぬふりをする姿勢に繋がっているように思う。藤島ジュリー社長が「知りませんでした」との釈明と重なってしまう。
ついでにタレントが報道番組のキャスターをするなど、ジャーナリズムからすれば御法度中の御法度。退散しなさい。