よくある話になるのだけれど、電車でお年寄りが立ったままで、若い人が座っている。若い人は寝たふりしているが、明らかに目の前にお年寄りがいるのを気づいている。あるいは、結構混んでいるというのに、大股開いて座席2つ分を占有している。まあ電車のマナーの話ではあるが、世間との対峙という視角から批判することができるけれども、その根本は観念に閉じこもっているからだと思う。
人間は現実を見ない。大抵観念の世界を作り上げて、その観念に沿って生きている。現実というのは、ここでは自然な人間や世界との関係性である。ところが、この関係性の間に自分がこしらえてきた観念を挟み込む。時にこの観念が多くの人と同様になることもあるので、多数決の多の方になってしまうので、どうしようもなくなる。目の前に年寄りがいても、自分も疲れているから、席をゆずる必要がないとか、先に座ったのだから、自分の席だとか、そういう観念である。
少し難しい言い方になるけれども、自然な関係性の世界の上に、自分が構築した観念を投影した世界のさらなる上に、自身の快不快や感情を組み上げる。そうなると、ひどい場合には妄想の世界に生きている。
電車のマナーの話に戻りましょう。お年寄りに席を譲らない、足を広げて座席を占有するのは、お年寄りがいること、多くの人が立ったままでいることを知っていながら、そういうことをしているわけです。それであえて目をそらせたり、寝たふりをしているわけです。足を広げているのもまた人々が遠慮していることを知っている。ただひとつ、自分が楽したいという観念に閉じこもっている。それ以外、他者が疲れている、迷惑しているということは見えていない。他者が疲れている云々は現実なのです。
ここで議論していることは、実は電車のマナーではありません。我々はこの電車内の行動を見るだけで理解できるように、自分の観念の中に止まり、その観念に固執し、現実を見ることができないでいるという一般的事実です。例えば、同僚と話をしていても、お互い観念の中に止まっていて、相互理解をできないままのことがあるのです。というか、デフォルトです。大抵別々の観念の上で行動し生きているのです。
そのために必要なのは時間です。時間をかけて、じっと見ていれば、他者がしていることが見えてくるはずです。これは時間を使うことにとって、私の心の動きが変化して現実を把握するようになるのです。
何かあって不満足な結果であったとか、受け入れがたい気持ちだけが優先している時、時間をかけて考えていくうちに、なぜか他者の観念の方もよく理解できるようになっていく。その時、幾分自分も他人の気持ちになれるからです。不思議と心はこういう風に動くように思われる。対象を正しく見極めることです。これを「わかる」というのだと思います。これは理屈ではないと思います。
さて、これで電車のマナーは解決できるわけではありません。マナー違反の人物の心が「わかる」だけです。しかしながら、この「わかる」があることによって、コミュニケーションが開かれる第一歩になるのであって、そう簡単なことではないのでしょう。