Drマサ非公認ブログ

人生を旅で喩える意味(後半)

 松尾芭蕉は日本中を旅しました。有名な『奥の細道』では、旅した土地の人々、その地の俳人と交流し、俳句を読み紀行文として、現代でも読むことができるものです。

 その芭蕉は弟子たちに、どのような修行を課したかというと、ただひとつ、人生を知ること、ただそれだけでした。人生を知ることは、すなわち人間を知ること、そして自然とともにあることなので、逆に照射すれば、人生とは自然と人間の共生である、そういう人生観であったのだと思います。

 何もSDGsなどと言うこともなく、松尾芭蕉の俳句を読むだけで、自然と人間の共生などは当然のことであったわけです。現代は科学が発達したために、そのような人生が遠のいたように思うのは僕だけでしょうか。それでも、僕は会ったこともない人のブログを見るだけで、自然の風景が写真で切り取られ、そこに自然に向かう心を感じることもあるので、自然と人間の共生が失われたとまでは言えないとも思うこともあります。

 ただ、芭蕉のように、俳句という言葉で、自然をそのまま言葉に載せてしまうこと、それこそ詩的表現にはなかなかお目にかかれないのではないかとも、同時に思うのです。

 正確な言葉は忘れたけれど、芭蕉は東海道の道を旅したこともない人は、風雅を語ることはできないとの趣旨の発言をしています。風雅とは「みやび」です。人生の趣です。味わいです。旅のない人生は、つまり人生の味わい、意味を語ることができないということを言っているのです。これも逆からいえば、語ることが可能なのは、人生の味わいを知っていることになります。

 芭蕉の頃の旅というのは、現在のように飛行機も新幹線も利用することはできないので、ひとつの宿場町を目指し、自らの足で歩いていったのです。当たり前といえば、当たり前。そこの道中、宿場でいろいろな人に出会いなにがしかを語ったものでしょう。江戸に住んでいては見聞できない多様な人々の多様な人生観に触れるのです。その触れたこと、あるいは触ることを通して、旅の中でそれらを自分のものにして行くのです。

 ですから、旅に出る前の自分と旅から帰ってきた自分は、違う自分なのです。ヘラクレイトスが「万物流転」と言いますが、人間は旅を通して、自分が流転していることに気づき、芭蕉なら、そこで俳句を読むわけです。旅の前の俳句と旅の後の俳句は、人間や自然との交渉を通じていますから、その俳句の趣も違うわけです。

 ですから、その違いをも味わうことが、俳句を味わうことになります。俳句はそのひとつの俳句を味わうだけではなく、前の俳句、今の俳句、後の俳句と連ねっていて、それらを味わうものなのです。それだけの旅をしているからこそ、風雅を語れるのです。

 そうすると、あの俳句の時の私というものが俳句に込められていて、俳句の流れはそのまま人生の流れになるのです。だから、人生は旅なのです。人の歴史とでもいえばいいのでしょうか。

 現在の観光が消費にすぎないとすれば、観光地を消費したかいなかというだけになるはずです。消費が人生では、人生とは何でしょう。そこにあの趣きはないのではないか、そんなことを思う次第です。

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