Drマサ非公認ブログ

これは自律性を奪うのだろうか

 今日帰り道で次のようなおばさん(というかおばあちゃん)を見つけた。ちょうど駅近くである。

 

 駅近くで「自転車の押し歩き」をしましょうという案内板を持ったおばあちゃんである。その狭い空間に結構な人数が案内板を持って立っている。そして、自転車に乗っている、あるいは押している人に、自転車は押し歩きましょうと声かけをしている。ついでにティッシュを配っていた。まあPRっていうやつだ。

 僕はなんでこんなことしているのだろうと思って横を通り越して歩いていた。そうすると腕章をつけていて、市(おそらく警察)からの委託業者である旨が記されていた。どんな文言だったかは失念したが、市からの依頼によるという正統性を主張しているのだろうか。

 ちょっと歩いて駅前広場の端には次のような看板が。

 これらを見て人々は何を思うのだろうか。いい行い?それともおせっかい?関心なし?そんな感じだろうか。

 でもこのような看板を作り、委託しているのだから業者にお金を払っている。もちろん市が。多分シルバー人材の活用なんて言いながら、委託業者にお金が回る。こんなことが公共性のある仕事なのだろうかと。

 しばらく歩いて、人通りから外れたところに、次のような看板が。

 なるほど、この事故が原因で先の看板や案内する人を雇っているのかと。ただ僕はそんなことは思わない。

 まず警察の管轄であるなら、警察官が仕事として行えばいい。なんで外部業者に委託する必要がある。予算が余ってるんだろう。公共の仕事を外部に委託するのは新自由主義的発想に結びついている、そんなことが頭に浮かぶ。違うことに使えばいいではないかと。

 なんだか良いことをやっているように思われるだろう。人々の安全を守るために自転車の押し歩きの推進である。そんなことで誰もが自転車の押し歩きをする社会が良い社会かどうか、考えたほうがいい。こんなこと、対処療法的な対策であって、このような予防が社会に張り巡らされていけば、どんな窮屈な社会になるだろう。

 窮屈ではないと感じるとすれば、このようなルールを自明として誰もがこの自明性をコード化して行きている社会ということになる。これロボットだ。自転車を乗ったままか、人が多いから押し歩きするかなんてのは自分で決めればいい。イヴァン・イリイチは近代社会の問題とは、社会の隅々まで規範主義的になり、人々から自律性が奪われることだと指摘する。

 そういえば養老孟司さんがコンピュータが人間に近くなるのではなくて、人間がコンピュータに近くなるのだと喝破しておられた。ちなみに一番コンピュータに近い人間を官僚というとも。とすれば、一般市民皆が官僚のように決まりを守ることを最高規範として生きる社会は近い。そんな気がしている。

 「ケガした子供がいるのよ!」と安全信仰が唱えられそうだが、そういう信仰こそが人間から自律性を奪うと、これまたイリイチが指摘していたことを思い出す。

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