少し時間が経ったが、『相棒』の元旦スペシャルで描かれていたことを取り上げたい。
あらすじは他のブログなど参考にしてほしいが、登場人物に子供2人がいて、1人は金持ち、1人は貧乏人という設定で、そこに現代の格差社会が現れているというものだ。
次のようなシーンがある。
金持ちの方の母親が、「貧乏人と遊ぶな」と。なぜなら「貧乏人と遊ぶと酷い目に会うから」と。そして2人の違いを「おばあちゃんしかいない」「住民税を免除されている」という格差から少年は理解している。
反町演じる冠は「君の責任じゃない」と言うが、少年は「誰の責任なんだよ。みんな自己責任と言うじゃないか。俺たちは努力が足りないんだよ」
その言葉を聞いて、水谷演じる右京さんも冠も何も言えないというか、切ない表情である。
こんなシーンである。政治家の傲慢が描かれているが、そこは省略して、政治家と対峙したシーンを。
右京は「どんな人にも家族や生活がある。守りたいそれぞれの幸せがある」と政治家に言葉を突きつけます。しかし、その政治家は「自分でどうにかしたらいい」と突き放します。
右京は続けます。「少年が諦めて自己責任と。助けを求めるのを恥ずかしいと。それが豊かな国、公正な社会でしょうか」。
そして、愚かな権力者がこういう社会を作ったんだと指摘します。セリフは正確ではありません。うる覚えのシーンではありますが、皮肉を込めて「美しい国でしょうか?」とでも言わせたいところだ。
最高裁判事を演じたイッセー尾形の演技は目を見張るものがあっただけではなく、彼が演じた判事が政治家の脅しに乗らなかったのは、司法が最後の砦であることを表現するものであった。
こう見ると社会性の、政治性の高いドラマをエンターテイメント性のなかで表現し、元旦に放送していたのだから、『相棒』は立派だと僕は思う。
ここで格差社会や政治の腐敗を指摘するのは容易い。僕が感心したのは、子供に格差や貧困、自己責任などの言葉を言わせ、子供がそれらの価値観を受容していることを表現していることだ。
これらの価値観を新自由主義とかなんとか言うのも容易い。そこに現れている価値観(格差や貧困、自己責任)の当然の受容である。これらイデオロギーが自明のものになっていることであり、それは子供に現れているということだ。子供が生まれながらにして、このようなイデオロギーを受容するわけはないのであり、それを植え付けたのは大人であり、社会である。そして、こういう人間が世代を受け継いでいくわけであるから、どのような社会が待ち受けているのか、考えなければならないと思う。
子供にこんなことを自明とさせ受容させている社会が、子供を大切にする社会であるはずがない。子供の心を殺しているのだ。知り合いの外国人が言っていたことを思い出す。「日本人の子供は童心が欠けるのが早い」と。
ドラマでは「貧乏人と遊ぶな」と言っていた親が、最後には自分の間違いを認める。救いが描かれているのが、未来の我々の姿を描いているのか、現実認識を妨げる目くらましなのかは、私達次第であると思うところであった。