いくつかの本で散見したものなのだけれども、原始社会、あるいは部族社会の人々と現代社会の道徳は違っている。出典は忘れてしまっているけれども、そこは調べるのが面倒なのでご容赦を。
記憶を辿ると、こんな感じの話だったと思う。部族社会で認められた現代人のところに、部族のメンバーがある道具を借りにきた。貸したのはいいのだけれど、返しにきた時、その道具は壊れていたという。現代の感覚でいうと、借りたものを壊したのだから、「申し訳ない」という気持ちになるはずだが、このメンバーはそのような気持ちを微塵ももっていないというのである。その意味で、メンバーは道徳的ではないし、現代社会に適合的なことばで非社会性を感じざるを得ない。ここから「申し訳ない」との気持ちは道徳の要請から生じる感情であることに気づかされる。
これは端的に部族社会の道徳と現代社会の道徳が異なっていることを示している。もっというと、部族社会には僕たちが信じている道徳が存在しないという考えをもたらしてしまう。僕たちは即所有という考えを意識もせず、あらゆる現象に適応しようとする。僕のものであるとか、彼のものであるとか、親のものであるとか、あるいは国家の所有になっているとか。
この事例からすると、このような所有という概念をこの部族社会は有していないのである。だからこそ、僕たちが人のものと思っている道具を壊したというのに、そもそも人のものであるとか、誰かの所有物であるとかという考えがないがゆえに、気にすることもないわけであろう。そもそも貸したとか借りたとかいう考えもなしに、そこに取りに来ただけというていどのことなのかもしれない。
そうするとなにがしかの主体が所有するという考え方は歴史的に構築されてきたひとつの考え方でしかないことになる。このことを敷衍すれば、道徳は歴史的に構築されたものという考えにいたるのはわかりやすい。ニーチェはこのような性格をもつ道徳が普遍的な存在であるかのような見かけを有することに対して、道徳が支配の原理であると暴露するわけである。とりわけその最大の存在が西欧近代において、宗教が弱体化している世俗化が指摘される時代にあっても、隠れて強い力を発揮しているキリスト教こそ、彼が攻撃しなければならない対象になったのである。
メンバーにとって、Realなのは道具をただ使ったことであり、壊れたことにすぎない。でも、僕たちはVirtualな道徳を適応し、世界を解釈してしまう。いまの時代ならば、そういう道徳をもたらす強い力を発揮するのは、ニーチェがいうように宗教であるし、資本主義や民主主義ということになるのではないだろうか。
(つづく)
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