男女平等、ジェンダー平等を志向する者たちは、家庭ではなく、社会への進出を目指す。ということが意味することは、家庭ではなく、社会が重要というメタメッセージを抱えていることになる。
もちろん、家父長制社会の弊害は人類史的課題であるから、当然女性の社会進出は是ではある。しかしながら、家父長制社会は人類の中に男女差別をもたらした元凶である。だから家父長制社会の中で培われた価値意識を相対化せず、家父長制社会の価値を強化してしまう、そんな矛盾を抱えているし、それに気づかないでいる。
つまり、女性が社会に進出すること、キャリアをあげて行くことは、家父長制社会で培われた価値観と共犯することではないか。とはいえ、社会に女性が進出することを否定することではない。それだけ差別は固定化されているからだ。
では、どのようにしたらいのだろうか。それは男性とか女性とかLGBTQとか人間主体を本質化するのを回避し、男性がになってきた領域と女性がになってきた領域に対する階層構造をひっくり返すことである。
つまり主に男性は社会を担ってきた、女性は家庭を担ってきた。そして家庭は社会に従属しているという考えをひっくり返して見たらいいのである。家庭の方が大事であると。
特に近代国家は、家庭が国家を構築する一要素として位置付けてきたわけであるから、家庭は国家に従属していることになる。そして、社会とは近代国家の経済を支えるものとして位置付けてきたのだから、必然家庭は従属した地位にある。そのように国民は信憑する。この経済、経世済民であろうか。
しかし、端的に転倒している。人々の幸せが国家に従属するものであることが「よく生きる」ことになるだろうか。
強いフェミニズムは、男性の地位を女性が占めるべきとしているように思う。それは男性が担ってきた領域を上位にする意識である。だから男性になりたいと言っているように見えてしまう。いやいや、女性が担ってきた領域こそ、人間が生きることの土台ではないか。
だから女性が担ってきた領域こそ重要という価値転換することは、近代の超克でさえある。家政こそ大切、子育てこそ人間の本質。そうすれば社会の制度設計や道徳は変化する。
現状の男女平等への志向は、そもそも感覚で捉えられる男女の違いを無視して、女性を男性化するような行為である。つまりは男も女も同じとする意識が作り出したものだ。だから人間の感覚(差異を捉える)を無視するような行為に見える。
とはいえ、女性の社会進出は当然であるという二重の意識をうまくやりくりするしかない。