Drマサ非公認ブログ

松本人志と有名性

 僕が、松本人志の問題から考えてしまうのは、もちろん性加害に見られる差別ではあるが、その背中合わせにある有名性の問題についてである。

 どうして現代人は有名性に憧れ、自ら有名であることを望み、有名ではなければ、有名なものと関わりたいと思うのだろう、そんな問題設定が湧き上がる。

 有名であることは情報化、情報資本主義社会と関係がある。マスメディアの発達と親和的現象である。いつの間にか情報に価値があると人々は信憑しているのだが、その人間的現象が有名人である。政治家、芸術家、芸能人が大衆全般に知られていること、そういう土台があるからこそ、なんだか価値があるとされ、大衆は有名人を崇める。

 有名であることをめぐる人々の反応は、無批判に有名であることを称賛しているように思われる。今回松本人志の性志向で、例えば、客室乗務員JALとANAを選択し、LCCはダメとか、マックはいいけど・・・という女性を記号化しているところに、「女性をモノ扱い」と尊厳無視に批判が集まる。

 とはいえ、松本自身が芸能人、有名人という記号であり、有名人を崇める社会心理を利用して、女性との関係を持とうとする記号的所作を実践し、まさに松本自身、有名性を崇めていて、自らはその地位にあると驕っていたのである。一応、彼の心理だから、驕っていたのであろうと推測される。

 社会学には、有名性に関する議論があり、現代の有名性は権力の一形態である。権力には色々形態がある。もちろん政治家とか、資本家とかであるが、有名人もまた権力である。だから有名人を中心にその力の作用が働く。その周りにはその力の作用に与するものが多く存在する。下世話な表現を使えば、「オイシイ思いができる」というわけだ。

 記号の特徴をひとつ上げれば、交換可能性である。だから有名人は交換可能なのだ。政治家だって同様。そして有名人はなにがしか成功や業績に根ざすように見えながら、メディア社会ではメディアに出ていることに過ぎないとの議論は80年代にはなされていたように思う。その意味で、有名性の中身は空虚でも構わない。有名であれば、テレビに出ていれば、いいのである。

 ダウンタウンは吉本興業のお笑い学校NSCの第1期とのこと。吉本は、このシステムを成功させたかったのだろう。実際にこの学校システムはビジネスとして成功している。ちょうど、それに乗ったのが彼らであり、松本である。その意味で、当時の吉本が社運をかけて売った存在がダウンタウン、松本人志。そういう側面は成功や業績の陰になってしまう。

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