Drマサ非公認ブログ

成人式はカーニバル

 調布駅前を歩いていたら、晴れ着の若者が写真を撮っていた。その光景を見て、僕は成人式の日であることに気づいた。結構な数の若者がいた。女性は振袖に随分誇張された毛のマフラー、男性は紋付袴で着飾っている。僕には皆で仮装を楽しんでいるようにしか見えない。まあ、ハロウィンの伝統的な衣装版である。

 言われるまでもなく、成人式は大人への通過儀礼である。厳粛であり、大人になることにおいて社会的責任や義務をひとつの重責として背負うことを確認する社会的行為である。

 それが元来の成人式の位置付けであった。しかしながら、現在の成人式はそのような意味を担っていないし、共有されていない。ということは、成人式は成人式の本来の意味を喪失し、その形式だけが引き継がれている。

 形式とは何かというと、その端的な表れが派手な衣装を着ることである。それが現在の成人式の意味で、そもそもの内実を欠いているので、着飾ることだけにのみ成人式の意味が収斂してしまう。結果、皆で派手になっていく。派手さの競争にさえなる。

 内実を欠いているのだから、その表れは馬鹿騒ぎであり、暴走であり、カーニバルのようになってしまう。

 では、そういう暴走する若者が悪いと言えるのだろうか?あるいは暴走しなくとも、派手な衣装を着ることを成人式としてしまうことが若者のせいなのだろうか?

 そうではあるまい。社会がそういう社会なのだ。大人になることに価値を見出すことができる社会を作り損ねてきたのは、大人の方である。若者はその大人の価値を受容しただけである。だから、その瞬間騒ぐこと、楽しいこと、カーニバル的な雰囲気の中に身をおくことに向かうのである。

 2019年、日本財団が行なった「18歳意識調査」で「国や社会に対する意識調査」が行われている(nippon-foundation.or.jp参照)。9か国を比較すると、いかに日本の若者が大人であることに価値を見出していないのかがよくわかる。

 「自分を大人だと思う」「自分は責任ある社会の一員だと思う」「将来の夢を持っている」「自分で社会や国を変えられると思う」「自分の国に解決したい社会議題がある」「社会議題について、家族や友人など周りの人と積極的に議論している」というどの項目に関しても、日本が最低のポイントを示している。「国がよくなる」という項目に関しても同様、日本がダントツで最低である。

 個人としての若者自身、そして社会や国に対して期待することができないわけである。このような調査結果から、若者は悲観的で無気力であると位置付けられる。ちなみに「自分で社会や国を変えられると思う」との問いで、日本は18.3%、中国65.6%、米国65.7%、日本の次に低い韓国でさえ39.6%である。

 このような社会状況の中では「大人になること」の価値が低くなるのは当たり前である。大人になることに何もいいことなどないのだから。ちなみに「自分の国が悪くなる」は日本が38%で最高ポイントでもある。

 しかしながら、成人式はある。じゃあ、「今を楽しんじゃえ!」ということになる。刹那的になる。成人式で“パリピ集合”していると批判してもしょうがない。社会に期待できない、自分自身にも期待できないなら、あらゆることが楽しむことのコンテンツとなり、レジャー的な世界の拡大、消費主義の自明化に適合するしかないではないか。

 しょうがない、そうすると、マナーが悪いと文句を言う程度のことしかできないわけだ。

 もちろん、そういう世界がいいなどとは全く思わない。

 しかしながら、あえて言う。「成人、おめでとう!!」

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